平成14年8月
教 行 証 御 書

 
(新編御書一一〇九頁)
 此の法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字と為り。此の五字の内に豈万戒の功徳を納めざらんや。但し此の具足の妙戒は一度持って後、行者破らんとすれども破れず。是を金剛宝器戒とや申しけんなんど立つべし。三世の諸仏は此の戒を持って、法身・報身・応身なんど何れも無始無終の仏に成らせ給ふ。此を「諸経の中に於て之を秘して伝へず」とは天台大師書き給へり。今末法当世の有智・無智・在家・出家・上下万人此の妙法蓮華経を持って説の如く修行せんに、豈仏果を得ざらんや。さてこそ決定無有疑とは、滅後濁悪の法華経の行者を定判せさせ給へり。三仏の定判に漏れたる権宗の人々は決定して無間なるべし。是くの如くいみじき戒なれば、爾前迹門の諸戒は今一分の功徳なし。功徳無からんに一日の斎戒も無用なり。
■通解

   この法華経の本門の肝心である妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字としたものです。この五字に万戒の功徳が納まっております。この諸仏万行万善の功徳を具足した妙法蓮華経の戒は、ひとたび持った後は、行者がいくら破ろうとしても決して破ることはできません。この戒を金剛法器戒と言います、と立論するとよいでしょう。
 過去・現在・当来世の三世の諸仏は、この妙法蓮華経の戒を持って、法身・報身・応身をともに具えた、無始無終の仏になられたのです。このことを天台大師は法華文句巻九の下で、諸経の中において之を秘して伝えず、と書かれています。今時は末法であり、当世の、智恵のある人も無智の人も、在家も出家も、上下万民がこの妙法蓮華経を持って修行するならば、どうして成仏の功徳を得ないことがありましょうか。ですから、法華経の神力品に、我が滅後にこの法華経を持つものは決定して疑いがありません、と説かれるのです。したがって、三仏の定められた判釈に漏れた爾前権教は無間地獄の苦しみに落ちることは決定しています。妙法蓮華経の戒を持つことはこのように貴いことであり、それに対して爾前迹門の諸々の戒は末法の現在一分の功徳もありません。このように、まったく功徳のない爾前権教の戒ですから、一日の斎戒は無用のことです。
■語句の意

○三世の諸仏〜過去仏・現世仏・当来世仏のこと。

○万行万善〜あらゆる修行とあらゆる善行のこと。

○具足〜具はそなわる。足はたりる。そこから、十分に具わっていることをいう。ここでは、妙法蓮華経の本門の戒のことを指す。

○金剛宝器戒〜金剛石のごとく決して壊れることのない戒のこと。妙法蓮華経の戒のこと。現在の私たちが持っている富士大石寺の大御本尊様の戒をいう。

○法身・報身・応身〜仏の三種の身のことで三身という。法身は永遠不変の真理(法)の身体の意。真身(しんじん)とも言う。報身は仏となるための因、つまり修行に励み、その報いとして完全な功徳を備えた仏身を言う。応身は衆生の願いに応じて現れる仏のこと。爾前の教えでは、法身の常住は説くが、報身・応身を備えた三身即一の仏は説かれない。三身即一身は法華経本門においてはじめて説き示される。迹門等で説かれるものは、始成正覚の域をでないものである。

○無始無終の仏〜三世に常住される仏のこと。無始は始めがないことであり、無終は終わりのないこと。つまり常住不変の意。無始は久遠元初。無終は終わりなき未来のこと。

○諸経の中に於て之を秘して伝えず〜天台大師の説かれた法華文句巻九にある。意は、一切の諸仏は、妙法蓮華経の戒を持って仏果を得たのであるが、諸経にはそのことを秘密にされ、説き表してはいないが明らかなことである、ということ。

○決定無有疑〜法華経神力品第二十の文。「我が滅度の後、この経を持つ者は決定して疑い有ること無し」と説かれています。この法華経を仏の滅後に持つ者は、必ず成仏が叶うという意です。

○濁悪〜濁劫悪世、五濁悪世の略。劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁の五濁があらわになり、世の中が乱れること。

○定判〜定められた判定。ここでは、成仏が定まっている、という意味で用いられる。

○権宗〜爾前権教を依経として立てられた宗派。権は「仮の意」。

○爾前迹門〜法華経を実教といい、法華経以前の教を爾前教という。爾前は「爾の前」。迹門は、法華経の序品第一から安楽行品第十四までをいう。それに対し、従地涌出品第十五から普賢菩薩勧発品第二十八までを本門という。

○一日の斎戒〜一日一夜に期限を定め、在家の男女が修行をすること。
■参照


観心本尊抄

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「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』」【御書六五三頁】

A
「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。『謗に因って悪に堕つは、必ず因って益を得』とは是なり。我が弟子之を惟へ」 【御書六六〇頁】


総本山二十六世日寛上人「本尊抄文段」

B
「これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり」
 8月の宗祖日蓮大聖人御報恩御講では、教行証御書を拝し、日蓮正宗富士大石寺の御本尊様の広大無辺の慈悲と功徳、信じ持つ(たもつ)ことの有り難さ等々、御住職様より御法話を賜った。

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