平成14年9月
四箇の格言
「日蓮去ぬる文応元年の比、勘へたるの書を立正安国論と名づけ、宿屋入道を以て故最明寺殿に奉りぬ。此の書の所詮は、念仏・真言・禅・律等の悪法を信ずる故に、天下に災難頻りに起こり、剰へ他国より此の国を責めらるべきの由之を勘へたり」( 建長寺道隆への書状・新編御書 三七五)

「真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊と」( 諌暁八幡抄・新編御書 一五四〇)

「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり」(日寛上人・如説修行抄筆記 文段六〇八)
 9月の宗祖日蓮大聖人御報恩御講御住職御法話では、大聖人様が御示しあそばされる「四箇の格言」について御書を拝し、御本仏様の「四箇の格言」を否定する池田大作等の大謗法と邪儀を、厳しく破折された。
御住職御指導
池田大作 「四箇の格言」を否定 

 朝日新聞の8月12日付けの夕刊によると、池田大作はついに日蓮大聖人様の「四箇の格言」を否定した。以下朝日新聞の当該箇所を長くなるが引用する。(【 】部分)       

【創価学会の機関誌「大白蓮華」は三月号で、池田大作名誉会長と斎藤克司教学部長の対談を掲載し、「四箇格言」読み直しを提唱している。
「四箇格言」とは日蓮が他宗を「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」と批判した四句を言う。それぞれ順に、浄土宗、禅宗、真言宗、律宗を指しており、名指しされた側は、日蓮の排他性を示すものとして反発してきた。
 二年前に発刊された創価学会編『宗教哲学大辞典』は念仏信仰について、「来世に極楽浄土に生まれることを目指し、娑婆世界を穢土として嫌った」とし、法華経を誹謗したことを理由に「無間地獄に堕ちる」と述べていた。
 今回の対談では、各宗の態度が日蓮の時代と違うことを強調する。池田氏は「当時の念仏宗は権力と結託し、独善的で排他的だった」としながらも、

@浄土教を「どんな疲れ病む衆生をも仏界の生命力で包み、絶対の安心感を与える」とする。
A「自力のみによる悟りの獲得と安住を説く」という「天魔」の禅は「自分の中に自分を変革する力のあることを信じ、それを実感していける」とした。
B「呪術による現世利益を説く護国宗教」の「亡国真言」も「現実の変革に勇気をもって邁進していける」存在となった。

 日蓮が激しく他宗派を非難した背景には、新興宗教団を当時の有力教団が迫害した歴史的背景もある。斎藤氏は経緯をこう説明した。
 「創価学会にも、似たような事情から他宗派を反撃した過去がある。しかし、今後は攻撃されないかぎりは協調していきたい。そのために組織内の意識改革を狙った試論です。時代の変化を無視して今の世に『四箇格言』をそのままにしておくことは、かえってこちらが独善的と批判されかねませんから」
 いまのところ、伝統教団の反応は冷ややかだ。「政治的ポーズだろう。排他的体質は変わっていない」との声が強い。】  
〈朝日新聞十四年八月十二日夕刊  ※@ABは編者〉


 要約すると、本年の三月の大白蓮華で、大聖人様が念仏無間とされた念仏の教えは「安心感がある」とし、禅天魔と破折された禅宗の教えは「自分を変革する力がある」というものになるそうだ。また天台の一念三千を盗み取り、民衆を誑かし真言亡国と破折された真言宗を「勇気を邁進していける」と持ち上げている。

 さらに、四箇の格言を大聖人様が持ち出したのは、当時の既成宗派から攻撃を受けた故に対抗措置として持ち出したまでで、大聖人様の御本意ではなかった、とまでいう。

 日蓮正宗の信徒から除名され、謗法の者となった池田大作がいまさら何を言うと別段驚くことでもないが、日寛上人をはじめとして日蓮正宗の御歴代上人の御本尊を拝み、日蓮正宗の化儀や化法を模倣している限り、富士の清流とそうではないものを峻別する意味でも誤りを指摘し、ただしていくことが我等法華講衆に課せられた修行である。

 大聖人様が末法に御出現になられた意義を正しく拝することが出来なくなるのが、富士大石寺から離れていった者達に共通することである。池田大作教祖も同じ轍を踏んでいる。

 大聖人様が鎌倉の世にお出ましになられ「南無妙法蓮華経」と師子吼されたのは、久遠の御本仏としての御振舞である。「四箇の格言」を前面に掲げ、「法華折伏・破権門理」の大折伏を展開されたのは、末代の私たちに成仏のための修行を示されたと拝することが肝要である。

 日寛上人が、
「常に心に折伏を忘れて四箇の名言を思わずんば、心が謗法になるなり」
と御指南になるのも、身・口・意の三業の上から、形ばかり御題目を唱えていても、折伏を忘れた信仰は大聖人様の教えではない、謗法である、と我ら末弟への警告の意味でなされたものと拝する。

 ところが、今回、教祖となった池田大作は、大聖人様が「四箇の格言」を師子吼されたことを、「独善的で排他的であるといわれるようになった」と斉藤某に語らせている。そして、時代にあった布教の方法があるとして、巧妙に四箇の格言を否定し、大聖人様の教えを蔑ろにする。

  諌暁八幡抄では、
「真言は国をほろぼす、念仏は無間地獄、禅は天魔の所為、律僧は国賊」 (新編御書 一五四〇)

と仰せになり、四箇の格言を掲げて折伏戦を展開される大聖人様に対し、「別の方法があるのではありませんか」と言って、末法の折伏戦に「策を弄する」池田大作教祖のような発言を破折されている。つまり、池田教祖は、大聖人様から破折される存在になった、と言うことである。

 言うまでもないことだが、法華経の中に説かれる「数々見擯出」「猶多怨嫉・況滅度後」等の実践をへて御本仏としてのお姿を示されるのが大聖人様の御振舞であり、むしろ、「難起こるをもって安楽と心得よ」というお言葉からすれば、「他宗から迫害を受けたから四箇の格言をもって反撃した」などとは絶対に言えないのである。大聖人様の御本仏としてのお姿をこれ以上貶めるものはないといえる。

 御本尊の模刻やニセ本尊の作成と併せて、大聖人の御化導を根底から覆す池田大作の大きな大きな謗法がまた一つあらわれた。

 宗旨建立七五〇年の記念すべき年、しかも立宗ご内示の三月にあわせてこの様な論を展開するのは、日蓮大聖人様に成り代わって末法の教主になろうと必死であがく池田大作の慢心がなせるのであろう。また、権力のすべてを一身に集め我が世の春を謳歌しているように見えて、その実、残り少なくなった人生に対する焦りが読みとれる。「おごれる人は久しからず」という平家物語の一文が思い浮かぶ。誠に気の毒なことである

 五老僧達は、「天台沙門」と名乗り、誇りある日蓮大聖人様の弟子であることを否定し天台の弟子となることで大聖人様を越えようとした。平成の今、かつては日達上人から「昭和の大行尊霊」とまで讃えられていた池田大作も、日蓮大聖人様の檀那の立場を否定し、日蓮大聖人様を越えようとする。本門戒壇の大御本尊様と、唯授一人の血脈から離れるものの末路は哀れである。

 「日蓮大聖人様の弟子」の立場に何の不満があろうか。今一度大聖人様が最蓮房を通して私たちに教えて下さる『一八円満抄』一文、
「貴辺年来の権宗を捨てゝ日蓮が弟子と成り給ふ。真実、時国相応の智人なり。総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ。智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき」(一五一九)

を素直に拝すべきである。

 末法の御本仏日蓮大聖人様の弟子檀那であれば、間違いなく一生成仏の功徳を得ることができるのである。これを忘れて、勲章や名誉称号をぶら下げ、オレは「智者・学匠」なんだ、「もっと敬え」との態度は「地獄に堕ちる」以外にない。

 この様な考えを池田教祖は古くから心にもっていた。それは、宗門支配(大御本尊様と、血脈を我が物にしようとする)を目論んだ、平成三年十一月十六日のスピーチで「真言亡国禅天魔法を下げるだけでしょ」と発言したことでも明かである。

 これに対し、宗門は「大聖人の権実相対の法義に違背したものである」と即座に指摘し、改めるように指導をした。ところが、池田大作は、「四箇の格言を少しも否定しておらず、(中略)『大聖人の教判並に権実相対の法義に違背したという断定は、全くの的はずれなものと言わざるえません』」と返答をした。また、ご丁寧にも、「平成二年十二月の教学試験でも四箇の格言を出題し、理解の徹底に努めている」とまで回答をしていた。

 あわせて、宗務院は、「親鸞は親しみやすく、大聖人は強いイメージがあり、これではこれからの折伏が出来ない」・「親鸞のイメージのごとき親しみがこれからの折伏の条件」という池田大作の発言を伝え聞き、池田大作の勝手な日蓮大聖人観であり、私的な法門、池田教である、と指摘した。これには、「悪意にみちた陥れ」であると反論をした。

 ところが、今回の池田大作の発言で明らかになったように、「浄土教を『どんな疲れ病む衆生をも仏界の生命力で包み、絶対の安心感を与える』」と言う。嘘つきは池田教祖の十八番(おはこ)とはいえ、平成二年の時点で指摘した「謗法・池田教の旗揚げ」が十二年後の本年、露見した意味は重大である。

 繰り返すが、平成二年十一月に宗務院から、「あなたの発言は、日蓮大聖人様の教えに背く大謗法である」と指摘された時には、「決してそんなことはありません。御宗門の誤解です」といいわけに終始していた。だが、事実は、宗務院の指摘通りの発言であり、心は「日蓮大聖人なにするものぞ」との慢心に犯されていたのである。

 しかし、池田大作は「C作戦」なる言葉を駆使して、日蓮正宗が池田大作を「カット」したと盛んに喧伝し、《純真で功績ある大信者を「カット」した日顕上人・権威を振りかざし信徒を蔑ろにする日蓮正宗》という構図を懸命に作り上げた。その構図の中心にあるのは、「横暴で権威を振りかざす御法主上人」に対し、「宗門に、尽くしても尽くしても受けいられなかった可哀想で純真な池田大作」というものである。
 
 実際は、会員から収奪した金力と、政権与党に加わった公明党支配を頂点とした権力を欲しいままにする独裁者なのだが。そして、何も知らない池田教徒は簡単に騙されてしまった。

 そして、常軌を逸した、日顕上人に対する誹謗中傷を繰り返している。一連の行動の目的は、血脈の尊厳を軽しめることである。独裁者は、日蓮正宗に代々伝わる「良き権威」がもっとも畏怖すべきものであることを熟知しているからに他ならない。新興宗教となった「池田教」では、「伝統」や「善き権威」が脅威なのであろう。伝統や善き権威に対抗する手段として、「金権」にものを言わせた、愚かしくて哀れな「勲章漁り」を繰り返している。

 気の毒なことに、多くの会員は事態を良く理解しようともせず、池田大作の指導のままに、大聖人様よりの血脈を御所持遊ばされる代々の御法主上人が御書写下さった御本尊様を、池田大作が制作した本尊に替え、本門戒壇の大御本尊様のもとに登山参詣し、過去世の罪障消滅を願うと共に、一切衆生の成仏を祈る信仰を投げ捨てて、勲章を漁ることが広宣流布だと洗脳をされてしまった。

 今回、洗脳が完了したと思った池田大作は、会則を変更し、「永遠の師」となった。次に目指すものは日蓮大聖人様を超越した「教祖様」として君臨することであろう。今までは、婦人部や青年部の中で内々の形を取って言わせ、決して外部に漏れることはなかった「池田大作教祖」が大手を振って出てくることは間違いのないことである。四箇の格言の否定はその布石であろう。

 御本尊下附を停止された時には、「心の中に御本尊がある、だから御本尊はなくても良い」と指導しておきながら、ほどなく日蓮正宗の御本尊様ににせた本尊を制作し販売したように、「仏様は日蓮大聖人様ただお一人」といった舌先が乾かぬうちに、「池田大作教祖」が登場する。

 思えば、日顕上人の執られた、「池田大作総講頭資格喪失」の措置は、本門戒壇の大御本尊様をお護りされる上から、唯授一人の血脈護持のお立場から、邪悪な企みを粉砕された大英断であられる。あのときに、日顕上人がご決断遊ばされなければ、今ごろ大御本尊様は池田大作の手中にあり、日蓮大聖人様の仏法とは懸け離れた「広宣流布」がまかり通り、一閻浮提の闇を開くどころか、一切衆生を地獄に導くことになったであろう。

 富士大石寺に御安置される本門戒壇の大御本尊様から離れ、日蓮大聖人様の仏法とは正反対の教義、すなわち、念仏の教えに『安心感を』与えられ、真言に「勇気を」もらい、禅宗を「自己変革をはかれる」と持ち上げる邪義を根幹として創設された、『池田教』。「南無池田大作」と唱え無間地獄に堕ちる池田教徒。 それに対し、宗旨建立七百五十年を、法華講衆三十万人の総登山でお祝い申し上げ、功徳あふれる信心を体験する平成の法華講衆。大聖人様への御供養の功徳を確信し、三年間にわたって実行された貴い真心からの御供養をもって建立され、此の十月十二日に落成法要を迎える「奉安堂」において、過去遠々劫の罪障消滅に励むことが出来る法華講衆。くらべるのもおこがましいが、あえて問いたい。

一、日蓮正宗富士大石寺の信仰と、池田教のどちらに「功徳」があるか。

一、本門戒壇の大御本尊様に御開扉を願って罪障消滅の御祈念をすることの出来る私どもと、池田大作が作成した本尊に向かって祈る彼らとどちらに「道理」があるか。

一、日蓮大聖人様、日興上人、日目上人、日道上人、日行上人、日時上人、と七百数十年の間、法統連綿と伝えられた唯授一人の血脈を御所持遊ばされる、御当代日顕上人の大導師を頂いて、「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と唱える私どもの喜びと、重みでふんぞり返らなければならないほどの勲章を胸にぶら下げた池田大作を「仏」と思い込まされ、「南無池田大作」と唱えなければならない苦しみ。
 このように、私たち法華講衆の功徳を確信できる信仰と、不信を持ちながらも引きずられて抜けることの出来ない深い深い闇の中で、いつか日の当たるところに出たいと願いながらもかなえられない池田教徒との違いはどこにあるのか。

 日寛上人は、本尊抄文段で、
「当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方に本尊の徳用に由って即ち観心の義を成ず」 (日寛上人本尊抄文段)

と御指南下さる。私たち末法の凡夫の成仏は、大御本尊様のお徳とお用きに由るのであり、大御本尊様を離れての成仏はあり得ない、との意である。この御指南を拝すれば、日蓮正宗富士大石寺に御安置される本門戒壇の大御本尊様に南無妙法蓮華経と唱えることが出来るか出来ないか、御本尊様の正邪に、彼我の功徳相違がハッキリとあらわれている。

 大聖人様が種々御振舞御書で
「日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」 (新編御書一〇六六)

と仰せになられる御意をよくよく肝に銘じ、平成の法華講衆の使命を自覚し、霊山の約束を果たすべく精進を重ねる時である。さらに、一生成仏の境界を築く良き機会ととらえ、折伏に邁進しようではないか。

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