平成14年10月13日

〜 登山 〜
四条金吾殿御返事(新編御書一五〇二)
南条殿御返事(新編御書一五六九)
「四条金吾殿御返事」(新編御書・一五〇二頁)
今此の所も此くの如し。仏菩薩の住み給ふ功徳聚の砌なり。多くの月日を送り、読誦し奉る所の法華経の功徳は虚空にも余りぬべし。然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし。

通 解

 今此の日蓮が居住致します所もまったく同じです。佛や菩薩方が住まわれる功徳が集まった所です。日蓮が入山以来、法華経を読誦し唱題を重ねたその功徳の大きさは、大空でもおさめきれないほどです。そのような所に、毎年、度々ご参詣になられることは、あなたが生命を得てより積もってきた罪障も必ず今生の間の修行において消滅致します。日蓮の言葉を信じて、益々励むべきです。励むべきです。

「南条殿御返事」(新編御書・一五六九頁)
此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん。彼の中天竺の無熱池に臨みし悩者が、心中の熱気を除愈して充満其願如清涼池とうそぶきしも、彼此異なりといへども、其の意は争でか替はるべき。彼の月氏の霊鷲山は本朝此の身延の嶺なり。参詣遥かに中絶せり。急ぎ急ぎに来臨を企つべし。

通 解
 日蓮が住する所に足を運ぶことは、生命を得てより今日までに犯した罪により積もった罪障も一瞬のうちに消え去ります。身・口・意の三業は即座に転換し、法身・般若・解脱という仏様の身に備わる徳となって顕れます。彼の、インド中央にあるといわれる無熱悩池に臨んだ悩める者が、心中の熱気を除き去り、その願いは満ち足りて、清涼の池にある如く、と申したことも、彼此の違いはあれどもその心においては違いはない。インドの霊鷲山は今はこの日蓮が住する身延の山です。参詣がしばらく滞っています。急ぎ急ぎ来臨を計画されるべきです。
大聖人様が建立下さった大御本尊様について、総本山第二十六世日寛上人は
「日寛上人・本尊抄文段」(文段集・一八九頁)
これ則ち諸仏諸経の能生の根源にして、諸仏諸経の帰趣せらるる処なり。故十方三世の恒妙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用あり。故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるなく、罪として滅せざるなく、福として来らざるなく、理として顕れざるなきなり。妙楽の所謂「正境に縁すれば功徳猶多し」とはこれなり。これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。

 諸仏の能生の根源であり、諸仏が帰趣するところである。帰趣とは物事の落ち着くところ。帰着点。本門戒壇の大御本尊様から一切の佛が出られ教えが生まれ、また大御本尊様に帰ってくる、久遠元初のそのときです。百千の枝葉は代々の御法主上人が御書写あそばされ私どものために御下附下さったところの御本尊様であり、一根は大御本尊様であります。


「取要抄文段」(同・五四三頁)には、
「広宣流布の時至れば、一閻浮提の山寺等、皆嫡々書写の本尊を安置す。その処は皆これ義理の戒壇なり。然りと雖も仍これ枝流にして、これ根源に非ず。正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く『像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫(みだ)さん』等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し、浅間し云云。宗祖云く『根深ければ枝繁く、源遠ければ流れ長し』(「御義口伝」新編御書・一七二六頁)」

とあます。日寛上人は、「根源から離れる、根源に迷う、それは増上慢であり、謗法であり、成仏は無い」と明確に御指南です。


 学会員は、「富士大石寺が謗法の山となった」という。「では大御本尊様は」と聞くと、よほど変な学会員以外は、「信じております」という。大御本尊様は信じていると言うのであれば、この御文に対してどう言い訳するというのか。彼らは、日興上人の身延離山と池田大作さんの問題をすり替えている。「謗法の山」は身延。身延には根源の御本尊様はもうありません。であるから謗法の山なのです。富士大石寺には「大御本尊様が厳然としておわします」その違いをしっかりと学会員の心に打ち込むことです。今はすぐに理解は出来なくてもかまわないのです。やがて、皆さまの一言が縁となって、正法に立ち返ることが出来ます。御本尊様の功徳と御慈悲の大きさを確信することです。そこから破折を始めると言う順序が大事です。


そこで、次の御文につながるのです。
「故に此本尊の功徳無量無辺広大深遠の妙用。故に暫くも此本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば則ち祈りとして叶わずはなく、罪として滅せざるはなく、福として来たらずはなく、理として顕れざるは無し」

日寛上人の大確信をお示し下さる御文です。実に有り難い御文です。御信心の話をする時にこれほど有り難い御文は無いですね。

 弘安二年十月十二日御図顕の、本門戒壇の大御本尊様を信じることにより、どのような願いも叶えられる、過去遠々劫の重罪であろうとも必ず消滅し、幸福境界を得ることが出来る。「理として」とは、筋道、条理としての理でありますから、祈りの叶う、罪が消滅する、福徳のあふれる、そのような多くの功徳を受ける道筋が明らかにされること間違いのないところです、と言うようになります。

 例えば、「仕事でなかなか契約が取れない。」「うまくまとまったと思ったら土壇場でキャンセルになった。」等々と悩むことがあります。最近は不況ですから多いでしょう。そこで、しっかりと御本尊様を信じるのです。修行を重ねるのです。そうすれば、どうしてキャンセルになったのか、なぜ契約が取れないのか、と言う理由が明らかになります。良くなかった理由がわかれば、次は改めればよいのである。
「理として顕れる」とは、こういうことです。筋道が見えるということは、成功の第一条件です。

 対人関係も同じです。親子や夫婦の関係で悩んでいる人、恋愛で苦しんでいる人。もしいたならば、「理として顕れる」信心なのですから、筋道がハッキリする信心なのですから、しっかりと唱題をし、折伏に努めましょう。そうすれば、おのずから問題は解決します。それが日寛上人の御確信です。また私たち法華講衆の確信でなくてはなりません。


 そのために、
「妙楽の所謂正境に縁すれば功徳なお多しはこれなり」

と、妙楽の止観弘決の文を引用され、御本尊の正当性が第一なのであると御指南下さいます。

詳しくは、文底秘沈抄に 
「夫れ本尊とは所縁の境なり、境能く智を発し、智亦行を導く。故に境若し正しからざる則んば智行も亦随って正しからず。妙楽大師の謂えること有り「仮使発心真実ならざる者も正境に縁ずれば功徳猶多し、若し正境に非ざれば縦い妄偽なけれども亦種と成らず」等云々。故に須く本尊を簡んで以て信行を励むべし。若し諸宗諸門の本尊は処々の文に散在せり、並びに是れ熟脱の本尊にして末法下種の本尊に非ず」(「六巻抄」四二頁)

要 約
境は御本尊であり、御本尊が智を誘発し、誘発された智はまた行に導く。故に正しい本尊を信じ修行をすることにより功徳を得ることが出来る、とあるごとくです。


「此れ則ち蓮祖出世の本懐本門三大秘法の随一末法下種の正体行人所修の明鏡なり」

この三大秘法の随一、つまり一大秘法は、申すまでもなく、奉安堂に御安置の本門戒壇の大御本尊様です。一大秘法を開くと三大秘法になり、三大秘法を合すると一大秘法の大御本尊様に収まるのです。「明鏡」とあります。御本尊様を鏡に譬えられるのです。家を出る時に鏡に向かってお化粧を直しますね。あの鏡に譬えられるのです。御本尊様が修行をする我らにとっては、明らかなる鏡であると。良く映る鏡なんです。ここが大事ですね。朝晩勤行をするにしても、自らの姿勢を映し出す鏡の前で勤行をしているんだ、と思うと、どうですか。真剣さも違ってくるのではないでしょうか。我が心を映す御本尊様と思って唱題をするならば、仏界も自然と湧き上がってくると教えて下さるのです。すごいことです。

大聖人様が四条金吾殿に、
「然るを毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか」

と仰せになるのも、また南条時光殿に
「此の砌に望まん輩は無始の罪障忽ちに消滅し、三業の悪転じて三徳を成ぜん」

と御指南遊ばされるのもここです。御法主日顕上人が「総本山に足をお運びなさい。折伏をするんですよ」と常に仰せになるのもここです。大聖人様、日興上人様、そして日寛上人様、また今日の日顕上人様が御指南になることは「本門戒壇の大御本尊こそ功徳の源」と、七五〇年日蓮正宗は終始一貫してるのです。


 これらの御文から、総本山に足を運ぶ功徳は大きくて深いことがおわかりになると思います。私たち法華講の役目は、自分たちも総本山に足を運び、罪深き人生を転換することは勿論ですが、我々よりもっと多くの罪障の中に沈んでいる人たちに、功徳を受けさせてあげるように勧めることにあります。
仏乗寺で折伏目標を立てて活動をするのも、仏乗寺だけのことを思っての活動ではありません。大聖人様のお使いをする上からの目標であると言うことを忘れてはなりません。
皆様方の手で、力で建立し御供養申し上げた奉安堂めざし、我らは車引きの役目を担おうではありませんか。

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