平成14年11月10日

開目抄
(新編御書五七二頁)
(新編御書五七四頁)
詮ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。身子が六十劫の菩薩の行を退せし、乞眼の婆羅門の責めを堪へざるゆへ。久遠大通の者の三五の塵をふる、悪知識に値ふゆへなり。善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし。大願を立てん。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生をごせよ。父母の首を刎ねん、念仏申さずば、なんどの種々の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用ひじとなり。其の外の大難、風の前の塵なるべし。我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。(新編御書五七二頁三行)

■意訳

 結局のところは天も日蓮を捨ててよろしい。いかなる難も来たれ。日蓮は生命をもととして、その難にあたるであろう。舎利弗は六十劫の菩薩の行を止めてしまった。それは乞眼の婆羅門の悪口と仕種に堪えられなかったからである。五百塵点の昔に久遠実成本果の下種を受けたものも三千塵点の大通智勝仏の時代に下種を受けたものも、五百塵点・三千塵点の間に成仏出来ず、今日に至った。それは偏に悪知識にあって成仏出来なかったからである。善についても悪についても法華経を捨てるということは、結局地獄へ堕ちることである。大願を立てよう。もし法華経を捨てて観無量寿経などの浄土三部経について後世を期するならば、日本国の位を譲ろう、もし念仏を称えなければ父母の頚を刎ねるであろう、とそれらの種々の大難が起きてこようとも、智者に自分の説が破られたならば法華経を捨てよう。このほかの如何なる大難も風の前の塵が飛ぶようなものである。日蓮は日本国の柱となろう、日蓮は日本の眼目となろう、日蓮は日本の大船となろう等と、即ち主師親の三徳をあらわして一切衆生を救うという大願を破ることが出来ない。

我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事を、まことの時はわするゝなるべし。妻子を不便とをもうゆえ、現身にわかれん事をなげくらん。多生曠劫にしたしみし妻子には、心とはなれしか、仏道のためにはなれしか、いつも同じわかれなるべし。我法華経の信心をやぶらずして、霊山にまいりて返ってみちびけかし。(新編御書五七四頁)

■意訳

 大聖人様および弟子達が、色々な難にあっても、法華経を疑う心がなかったなら、この真の大法を受持することによって即身成仏の大功徳は誤りないところである。
 そして、天の加護がないのではないかとか現世安穏ではないなどと絶対に疑ってはならないし、これを歎いてはならない。
 このことは、大聖人が自分の弟子に朝夕教えてきたことであるが、大聖人が佐渡配流になったことで、疑いを起こして、皆が法華経の信心を捨ててしまった。信心の拙い者の習いとして約束したことをいざという時に忘れてしまう。
 次に檀那に対して、誰もが自分の妻や子供を愛し、幸福を願っているけれども、この信心の故にもし妻子と別れるようなことがあっても、長い間親しんだ妻子とは自分の心で離れる時もあったし、また、仏道の為に離れる時もあった。
 しかし、別れるということは同じである。ならば、むしろ仏道の為に別れることによって必ずその功徳が成就し、仏となり霊山に生じて自由自在な境界を得て、のちに妻子を正しく仏道に導くことができるのです。
※今回の11月度御講「御書拝読と御法話」につきましては、御住職様が布教区寺院の御会式に御出仕なされておりましたので、当日代理を務められました在勤の御所化さん方による御書研鑚発表を掲載させて頂きました。

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