平成15年 3月 9日

南条殿御返事
上野殿御返事


〜 孝養 〜
南条殿御返事(御書九七三頁)

 今の御心ざしみ候へば、故なんでうどのはたゞ子なれば、いとをしとわをぼしめしけるらめども、かく法華経をもて我がけうやうをすべしとはよもをぼしたらじ。たとひつみありて、いかなるところにをはすとも、この御けうやうの心ざしをば、えんまほうわう・ぼんてん・たひしゃくまでもしろしめしぬらん。釈迦仏・法華経もいかでかすてさせ給ふべき。かのちごのちゝのをなわをときしと、この御心ざしかれにたがわず。これはなみだをもちてかきて候なり

■語句の意味

○故なんじょうどの―南条時光の父、南条兵衛七郎のこと。鎌倉幕府の御家人。上野郷の地頭。鎌倉出府中に大聖人様の折伏を受け念仏の信仰を捨てた。文永二年三月八日に亡くなっている。この時、大聖人様は鎌倉から富士上野まで足を運ばれ、墓前で追善供養の読経唱題をされている。時光はこの時七才。

○けうよう―孝養のこと。

○えんまほうわう―閻魔王・炎魔とも書く。地獄界の主ともいわれる。また、衆生が生前に冒した罪を裁く役目があるといわれる。それによると、亡くなった後の五七日(三十五日)に、閻魔王の法廷において生前の善悪の行いについて、審判を受け、成仏不成仏が定められるとされる。この審判の時に、残された者が追善供養をすることにより、地獄界の苦しみから救われると説かれる。

○ぼんてん―梵天。大梵天王のこと。仏法を守護する善神。帝釈天と共に仏様に随って仏様を護る役目がある。また娑婆世界の主であるとされる。

○たいしゃく―帝釈。帝釈天のこと。大梵天王とともに仏法を守護する善神。

○かのちご―かの稚児。父大橋太郎を救った子供を指す。

○なみだをもちてかきそうろうなり―大聖人様が親孝行な時光の姿をご覧になり、父兵衛七郎のことを思い、かく仰せになる。幼き時光を始めとする多くの子供たちを残し、病に倒れ臨終を迎えたことは、父にとっては非常な苦しみであったろうが、残された時光が、父の信心の後を継ぐばかりか、このように追善供養を勤める信者に成長したことに、亡き親も感涙にむせんでいることであろう。日蓮も孝養の志が嬉しく涙が止まらない、と言うこと。


■意 訳

 今の貴方の御志を見ますと、故南条殿は、親子ですから、愛おしいとは思われていたでしょうが、このように法華経をもって、私のために孝養に励んでくれるとは思っておられなかったでありましょう。たとえ、罪があって苦しみの所に生まれ合わせたとしても、この孝養の志を、閻魔法王も梵天も帝釈もご存じのことでしょう。釈迦仏も法華経の御本尊も必ずすくい上げてくださいます。かの稚児が、捕らえられている父の縄を解いたことと、貴方の志は少しも違うことがありません。この手紙は涙を墨として書きました。



上野殿御返事(御書一一二三頁)

 御信用あつくをはするならば人のためにはあらず、我が故父の御ため、人は我をやの後世にはかはるべからず。子なれば我こそ故をやの後世をばとぶらふべけれ。郷一郷知るならば、半郷は父のため、半郷は妻子眷属をやしなふべし

■語句の意味

○郷一郷―領地のこと。南条家には、富士上野の他に、伊豆南条・相模舞岡・駿河蒲原などがあった。


■意 訳

 御信心を強盛になさるのであれば、その信心は人のためではありません。我が亡き親のためです。他人に我が親の供養を代わってもらうわけにはまいりません。子であるからこそ、亡き親の来世を弔うことができるのです。郷を一郷領知しているならば、半分は父親の仏事のために、残りの半分は妻子眷属を養うために用いるべきである。



■解 説

 南条時光の父兵衛七郎が亡くなったとき、時光は七才の子供でした。残された子供は悲しく、辛い日々であったことでしょう。また、幼い子供を残して先立つ父の心情は、いかばかりであったでしょう。

 時光は、その父の思いに対し、少しでも安らかに、心配をかけないように、と信心に励みました。大聖人様は、そのような時光に、追善供養の大切さを教えて下さっております。そして素直に教を実践することにより時光の信心は深まっていったのです。事実、時光は、多くの御書を与えられておりますが、追善供養の事に触れられた御書が多数を占めております。

 換言すれば、時光は、亡き父への孝養を通して大聖人様の信仰を学んだとも言えます。そういたしますと、亡き父が、亡くなった後も、大聖人様の信仰を教え続けている、と言うことになるのではないでしょうか。

 大聖人様が、「これはなみだをもちてかきて候なり」と仰せになられるのも、以上のような意味が込められていると拝することができます。

 私たちも、追善供養を形式として捉えるのではなく、信心を深める「場」であり「時」であると積極的に捉えることが大切です。亡き方々に対する思いを形に表すことにより、自身の信仰を深めることができるのです。信仰を深めることが成仏の道です。

 何処かの新興宗教団体では、「南無妙法蓮華経と唱えていれば成仏するのであるから、僧侶による追善供養など必要はない」と言ってはばからないようです。しかし、南条時光に与えた御書の一節を拝すだけで、彼らの言うこと、なすことが、大聖人様の御書に反していることがハッキリとします。御書に背くことを謗法と言います。

 私たち法華講衆は、幸いなことに、過去世の善縁により、本門戒壇の大御本尊様(日蓮大聖人様)に亡き方々の追善供養を願うことができます。血脈付法の御法主上人の御指南を根本した、僧俗一致の追善供養ができます。ここに成仏があるのです。ゆえに、世界一の孝養に励む者は皆様方法華講衆である、と言えます。

 大聖人様が、南条時光を通して教えて下さったことを、我が確信とし、自らも励み、また、迷信や慣習に惑わされ、真実の孝養から遠ざかっている人々に対し、「富士大石寺の信仰によって亡き方々を成仏に導きましょう」と化他行に精進することが、彼岸の月にあたっての修行です。ご参詣の皆さまのご活躍をお祈りいたします。

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