平成15年 4月13日

如来滅後五五百歳始観心本尊抄
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 (六五二頁)

問うて曰く、上の大難未だ其の会通を聞かず如何。答へて曰く、無量義経に云はく「未だ六波羅蜜を修行する事を得ずと雖も六波羅蜜自然に在前す」等云云。
法華経に云はく「具足の道を聞かんと欲す」等云云。涅槃経に云はく「薩とは具足に名づく」等云云。竜樹菩薩の云はく「薩とは六なり」等云云。無依無得大乗四論玄義記に云はく「沙とは訳して六と云ふ、胡の法には六を以て具足の義と為すなり」と。吉蔵の疏に云はく「沙とは翻じて具足と為す」と。天台大師の云はく「薩とは梵語なり此には妙と翻ず」等云云。私に会通を加へば本文を黷すが如し、爾りと雖も文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。

通解

お尋ねいたします。上に述べられる大難については、未だその解釈を聞いたことがありませんが、何故でしょうか。
お答えいたします。法華経の開経である無量義経十功徳品には、「未だ六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)の修行をいちいちにすることがなくとも、六波羅蜜の功徳は自然に具わっている」と説かれています。
法華経の方便品では「仏因と仏果が具足する道を聞きたいものである」と説かれております。涅槃経如来性品では、「薩とは具足ということである」と説かれています。竜樹菩薩は大智度論に「薩とは六のことである」と述べ、無衣無得大乗四論玄義記には「沙とは翻訳して六という意味である」とあります。嘉祥大師吉蔵の法華義疏には「沙とは梵語で翻訳して具足ということである」と述べ、天台大師は法華玄義で「薩とは梵語であり、中国においては妙と翻訳する」と述べています。
これらの先哲の解釈の上にさらに私の解釈を加えることは、法華経の経文を汚すようなものでありますが、ご質問ですからあえて申し述べますと、ここに示される経文の意は、釈尊の因行と果徳の二法は、すべて妙法蓮華経の五字に具足している、ということです。ゆえに、我々凡夫がこの妙法蓮華経の五字を受持するならば、おのずからその因果の功徳を仏から譲り与えられると言うことなのです。
 

語句の意

○大難=当文の前に説かれる、「法華経に明らかにされる一念三千の法門は、煩悩充満の凡夫に仏の命が具わっている」との仰せが信じ難いということ。

○会通=互いに違う説を会して通ぜせしめること。「会」はあわせる、一致させる、さとる、理解などの意味がある。「通」は達する、ひらく、とどくなどの意味。

○無量義経=無量義経は法華経の開経。開経はとは序説の意。引用されている経文は「善善男子、第七に是の経の不可思議の功徳力とは、若し善男子、善女人、仏の在世、若しは滅度の後に於て、是の経を聞くことを得て、歓喜信楽し、希有の心を生じ、受持し、読誦し、書写し、解説し、説の如く修行し、菩提心を発し、諸の善根を起し、大悲の意を興して、一切の苦悩の衆生を度せんと欲せば、未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し、即ち是の身に於て、無生法忍(不退位)を得、生死、煩悩、一時に断壊して、菩薩の第七の地に昇らん」

○六波羅蜜=布施波羅蜜・持戒波羅蜜・忍辱波羅蜜・精進波羅蜜・禅定波羅蜜・智慧波羅蜜のこと。波羅蜜は「彼の岸にいたる」の梵語。和訳では「度」。ゆえに「六度」ということもある。爾前経の菩薩たちは、この六波羅蜜の修行を生死生死のくり返しの中で、永い年月を費やして励むことにより、悟りを得るとされたが、無量義経において、「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖も、六波羅蜜自然に在前し」と説かれる。

○具足の道=方便品文。一念三千が円満無欠の義であることを顕す文。具足とは円満具足の意。あらゆるものを具ているところの道。即ち、一念に十界が具わるということ。

○薩=梵語〔サット〕の写訳。妙、正と訳す。

○沙=梵語〔サ〕音写。六と訳す。印度の法では六は具足の意。

○無依無得大乗四論玄義記=中国唐代の僧、慧均の著。十巻からなる。

○吉蔵の疏=中国隋代の僧。三論宗の元祖。嘉祥大師ともいわれる。

○因行果徳の二法=因行は仏が九界の因位において修行をしたことをいう。つまり、仏になる原因。果徳は、仏という結果、果報のこと。

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