平成15年 4月27日 佛乗寺40周年記念法要

阿仏房御書
窪尼御前御返事
上野殿御返事


〜 御供養の大事 〜
@阿仏房御書(七九三頁)
多宝如来の宝塔を供養し給ふかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給ふ。我が身又三身即一の本覚の如来なり。かく信じ給ひて南無妙法蓮華経と唱へ給へ

○多宝如来の宝塔=法華経見宝塔品第十一で説かれる宝塔。この御文では、日蓮大聖人様が末法衆生を救済するために顕された御本尊様のこと。
○さにては候はず=〜ではないという否定の言葉。
○三身即一の本覚の如来=三身即一身のこと。三身は法身・報身・応身。法身とは永遠不滅の眞理の当体。仏の本体。報身とは仏になるための因として行を積み、その報いとして顕れた仏身。応身とは衆生を救済するために顕れる仏の身体。本覚は始覚に対する言葉で久遠のより悟りを開いていると言うこと。如来は仏の十号の一つ。他に、応供・正遍知・明行足・善逝・無上士・調御丈夫・天人師・世尊・仏。ゆえに、ここでの御文の意は、久遠元初の無作三身如来のことであり、御本尊様のことと拝することが大切である。


【通解】御本尊様を供養すると思っているかもしれませんが、そうではありません。御本尊様を供養することは、我が身を供養することなのです。なぜならば、我が身が法身・報身・応身の三身を具 た本覚の如来だからです。このように申し上げる日蓮の教を固く信じ、南無妙法蓮華経と唱えなさい。

【解説】この御書の最後の部分で、阿仏房に御本尊様を御下附になる旨のお言葉があります。つまり、阿仏房が御本尊様を御供養することは、結局は自分自身に功徳が返ってくると言うことを教えて下さる御書です。
 

A窪尼御前御返事(一五八二頁)
此は日蓮を御くやうは候はず、法華経の御くやうなれば、釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に此の功徳はまかせまいらせ候。

【通解】貴女がいま御供養されるのは、日蓮への御供養のように思われるでしょうがそうではありません。御本尊様への御供養なのですから、功徳もまた御本尊様から頂戴することができます。

【解説】御供養の功徳は、すべて御本尊様がご承知下さることであり、信仰をするものは、「一切は御本尊様のお計らいである」と深く信じる事の大切さを教えられる御書です。


B上野殿御返事(一五二八頁)
鵞目一貫文送り給び了んぬ。
御心ざしの候へば申し候ぞ。よくふかき御房とおぼしめす事なかれ。
仏にやすやすとなる事の候ぞ、をしへまいらせ候はん。人のものををしふると申すは、車のおもけれども油をぬりてまわり、ふねを水にうかべてゆきやすきやうにをしへ候なり。仏になりやすき事は別のやう候はず。旱魃にかわけるものに水をあたへ、寒氷にこゞへたるものに火をあたふるがごとし。又、二つなき物を人にあたへ、命のたゆるに人のせにあふがごとし。

【解説】熱原法難の翌年に与えられた御書です。この時、南条時光は、地頭職と言う権力の側にいながら、鎌倉幕府を諫める大聖人様の信仰を貫くゆえに、不当な弾圧を受けていました。
そのような中でも、日蓮大聖人様に対する御供養の精神は変わりませんでした。その志を大聖人様がお誉め下さり、「やすやすと仏になる事の候ぞ」と仰せになります。
たやすく仏になることができる、との御指南は、爾前権教の菩薩たちのように、生死生死を繰り返す中での難行苦行とを比較して仰せになるのであり、「楽をして」と言う意味ではありません。あくまでも、末法で南無妙法蓮華経と御本尊様を供養し、唱題に励み、折伏に邁進する修行のことを仰せになるのです。

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