平成15年 5月11日

光日房御書
光日房御書(九六四頁)

法華経を信ずる人は、かまへてかまへて法華経のかたきををそれさせ給へ。念仏者と持斎と真言師と、一切の南無妙法蓮華経と申さざらん者をば、いかに法華経をよむとも法華経のかたきとしろしめすべし。かたきをしらねばかたきにたぼら(誑)かされ候ぞ。あはれあはれげざんに入ってくわしく申し候はゞや。又、これよりそれへわたり候三位房・佐渡公等に、たびごとにこのふみをよませてきこしめすべし。又、この御文をば明慧房にあづけさせ給ふべし。
なにとなく我が智慧はたらぬ者が、或はをこづき、或は此の文をさいかく(才覚)としてそしり候なり。或はよも此の御房は弘法大師にはまさらじ、よも慈覚大師にはこへじなんど、人くらべをし候ぞ。かく申す人をばものしらぬ者とをぼすべし

通解

法華経を信ずる人は、用心に用心を重ね、法華経の敵を恐れなければなりません。念仏の者や戒律を持つ者や真言の僧など、南無妙法蓮華経と唱えない者が、どのように法華経を読んでいたとしても、全て法華経の敵であると考えるべきです。敵のことを知れば敵に欺かれることはありません。直接お会いして詳しく申し上げたい思いです。使として派遣した三位房や佐渡公に、機会をあるごとにこの手紙を読ませて内容をお尋ね下さい。また、この手紙は明慧房に預けておくとよいでしょう。
ともすれば、智慧のない者が、日蓮を嘲笑したり、この手紙を拠り所として謗るでしょう。あるいは、日蓮房がいかに智慧ある者でも、弘法大師や慈覚大師よりは勝れてはいないなどと、比較するでしょう。このように申す人は仏法を知らない愚か者と思い、捨ておきなさい。


■解説

 当抄は、安房天津(千葉県安房天津町)に住していた光日尼に、建治二年三月に身延から与えられた書です。対告衆の光日尼は大聖人様が立宗宣言を遊ばされた直後からの信仰であったと思われます。当抄の御真蹟はかつて身延に伝えられていましたが、残念なことに、明治八年の火災により『開目抄』などの御書と共に消失しました。

 光日房は、他にも、『光日尼御返事』(一四九七頁)と、『光日上人御返事』(一五六四頁)を頂いております。これらの内容から、大聖人様の信者として真剣に信仰に励んでいたことが知れます。

 当抄をいただいた直接のきっかけは、光日尼が子息「弥四郎」の死去を大聖人様にご報告したことです。大聖人様はすぐさま、弟子の三位房と佐渡公を弔問の使として安房の国に派遣しました。そして、母尼に対し、弥四郎への追善供養に励むことを勧められ、さらに、故人は法華経の信仰をしていたのであるから成仏は間違いがない、後生は善きところに生まれることができる、と母尼を慰められています。

 大意は、冒頭で佐渡流罪のことについて触れられ、流罪になる前に故郷の父母や師匠の墓参をしておくべきであったと、故郷を懐かしむお言葉があります。また佐渡流罪となったのは、「念仏を無間の業と申し、禅宗は天魔の所為、真言は亡国の邪法」と破折したことが直接の因であるとされ、「いかなる罪科に問われようとも折伏の精神を捨てることはない」と主張したことから、「とうてい流罪を許され鎌倉に帰ることはない」と思われていたことなどが記されています。しかし、日蓮大聖人様が法華経の行者である証拠として、諸天の計らいがあり流罪が許されたこと、また、その後の身延入山の経緯などが述べられます。

 さらに、かつて弥四郎と面談をしたときに、武士であるから母より先に死ぬようなことがあるかも知れない、そのような時には母の信仰を導いて頂きたい、というような話をしたことがあった、と仰せになり、母尼の信心を勧められます。

 最後に、本日拝読を申し上げた、邪宗の者達に対する心構えについての御指南があります。


■ポイント

「法華経を信ずる人は、かまへてかまへて法華経のかたきををそれさせ給へ(乃至)南無妙法蓮華経と申さざらん者をば、いかに法華経をよむとも法華経のかたきとしろしめすべし」

と仰せです。これは、日蓮大聖人様の弟子檀那は、世界中で一番正しいことをしようとしているのであるから、その修行には、また世界中で一番大きな妨害が起こってくる。だからよくよく注意をしなくてはならない、と言うことです。ここで仰せの「かたき」は念仏であり真言です。念仏の者が法華経を読み、もっともらしいことを言ったとしても、それを信じてはなりません。なぜならば、末法で、法華経を御所持されるのは日蓮大聖人様ただお一人だからです。法華経は日蓮大聖人様の御指南があってはじめて理解できるのです。

 第六天の魔王は、言葉巧みに正法の信仰者を欺き退転させようとします。これは、現在も同じです。代々の御法主上人に御相伝された富士大石寺の大御本尊様に南無妙法蓮華経と唱えない人達が、いくら南無妙法蓮華経と唱え、同じお題目であると言っても心を許してはならないのです。このような、正法の信仰を妨げようとする人達に対し、慎重に対応し、大聖人様の正義を説き聞かせなくてはなりません。ゆえに、折伏に臨む時の心構えとして、相手が御書を持ち出しどのような話をしようとも、正しい御書の拝し方ではないのですから、自分は御書を知らないから、と恐れを抱いたり、臆病であってはなりません。なぜなら、

「日蓮が弟子等は臆病にては叶ふべからず」『教行証御書』(一一〇九頁)

とありますように、臆病であっては成仏は叶いません。そこで、「敵を恐れる臆病な我が心を恐れよ」との二重の御指南でもあります。

 次に、

「かたきをしらねばかたきにたぼらかされ候ぞ」

との仰せになります。これは、世間にも「敵を知り、己を知れば百戦これ危うからず」と言う言葉があります。同じように、相手の信仰がいかに誤っているかを知ることにより、私たちの正しい信仰を守ることができる、と言うことです。そのためには、唱題です。お題目を唱えておれば相手を知ることができます。そうすると、相手の妄語を見抜くことができるようになります。そして、「誤った信仰で罰を受けている。救ってあげよう」との生命が湧き上がります。そうなると、御本尊様への確信、御本尊様の尊さを一言でも話すことができます。つまり、「たぼらかされる」心配はなくなり、正法に導くことができる、との仰せなのです。
 
 どこまでも、慈悲を第一に、敵であろうと誰であろうと、最後は大御本尊様の御許に導く確信を持つことを教えて下さるのです。

 最後に、

「なにとなく我が智慧はたらぬ者が、或はをこづき、或は此の文をさいかく(才覚)としてそしり候なり。或はよも此の御房は弘法大師にはまさらじ、よも慈覚大師にはこへじなんど、人くらべをし候ぞ。かく申す人をばものしらぬ者とをぼすべし」

と仰せです。日蓮大聖人様が、立正安国論で、法が第一である、法を中心として国家を運営にしなくては滅びると諌言をされました。個々人においても当て嵌まります。正法を中心とした生活設計をしなくては家は滅びる、と教えて下さることを、世間では信用しません。日蓮正宗の者が勝手に言ってることでそんなことを信じるより、自分の努力でなんとでもなる、という人間中心の考え方が蔓延しているのが末法の姿でしょう。このように言いますと、「いや、私たちは仏の教に従って日々をすごしている」と言います。では「その法は何か」と糾すと「先祖からの仏壇がある」とか、「いつも手を合わせている」という曖昧な答えしかありません。結局は、自己中心的な信仰です。「御書根本」と言いながら「池田大作仏」を立てる創価学会がその最たるものです。現在の日本の混乱はこのような池田大作仏が支配する政党が国勢に参画しているからに他なりません。

 ところが、

「かく申す人をばものしらぬ者とをぼすべし」

と仰せの御文でも分かりますように、大聖人様の教を理解する人は少ないのです。
ですから、『兄弟抄』(九八六頁)には

「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競はずば正法と知るべからず。第五の巻に云はく「行解既に勤めぬれば三障四魔紛然として競ひ起こる、乃至随ふべからず畏るべからず。之に随へば将に人をして悪道に向かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ」等云云。此の釈は日蓮が身に当たるのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習ひ伝へて未来の資糧とせよ」

と仰せになるのです。御文のごとく、どのような『魔』が競い起ころうとも、あくまでも正法を説くことが成仏の道です。また、『三障四魔が競い起こる』ことは、信仰が深まったことを知るバロメーターであると言えます。

 イラク戦争の終結に安堵したのはつかの間で、今度はSARS(サーズ)が猛威を振るい、不安をかき立ててます。経文に説かれるごとく、三災が現実となっています。三災とは、一に兵革の災い、二に疾疫の災い、三に穀貴の災いです。これまで、遠い国で起こる出来事、と思い切実には感じていなかったかも知れません。ところが、今回の戦争で明らかになったように、日本は燃料の補給などを通して兵革の災いに荷担しています。また、サーズに感染しているかも知れません。疾疫の恐れがあります。食料を無駄に消費する報いとして、穀貴の災いをいかにすれば克服できるでしょうか。このような時が来ることを予めご承知おきの大聖人様は、「色も香りも味わいよい良薬」を大御本尊様として顕し、私たちに与えて下さったのです。

 このような時であるからこそ、なお強盛に、折伏の情熱をたぎらせ、勇気を持って、誤った信仰にとらわれている人々を、正しい信仰に導き、幸福境界を得さしめることがまた私たちの功徳になるのです。
 
 つねに折伏を忘れず、御本尊様のお使いをし、世界の平和を祈って行くところに一生成仏の境界が開かれてまいります。

 風薫る良き季節です。ご精進をお祈り申し上げます。

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