平成15年 8月9・10日 御講

曾谷殿御返事
曾谷殿御返事(新編御書一〇四〇頁)

経に云はく「在々諸仏の土に常に師と倶に生ぜん」と。又云はく「若し法師に親近せば速やかに菩薩の道を得、是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」と。釈に云はく「本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」と。又云はく「初め此の仏菩薩に従ひて結縁し、還此の仏菩薩に於て成就す」云云。返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給ふべし。釈尊は一切衆生の本従の師にて、而も主親の徳を備へ給ふ。此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候。法華経は種の如く、仏はうへての如く、衆生は田の如くなり。若し此等の義をたがへさせ給はゞ日蓮も後生は助け申すまじく候。


【通解】
経文には、「在在諸の仏土に常に師とともに生まれる」と説かれ、また、「もし法師に親近するならば、速やかに菩薩の道を得ることができる。この師に随順して学ぶならば、恒河の砂ほどの仏を見ることができる」と説かれています。釈には、「本この仏に従って初めて道心を発し、またこの仏に従って不退地に住す」とあります。また、「初めこの仏菩薩に従って結縁し、またこの仏菩薩において成就す」と説かれています。これらの経文や釈にあるように、くれぐれも「本従」の筋道を通し、成仏の道を進むべきです。釈尊は一切衆生の「本従」の師です。しかも、主親の徳を備えられています。
このような法門を日蓮が申しますから、「忠言は耳に逆らう」道理から、流罪にもなり、命にも及ぶことになります。しかし日蓮はいまだ懲りてはおりません。法華経は種の如くであり、仏は植手の如くであり、衆生は田の如くです。もし此等の義を間違えたならば、日蓮は貴男の来世を助けることはできません。


【語句】
○「在々諸仏の土に常に師と倶に生ぜん」法華経化城喩品第七の文。経文には「一一の沙弥等の 度する所の諸の衆生 六百万億 恒河沙等の衆有り 彼の仏の滅度の後 是の諸の聞法の者 在在諸仏の土に 常に師と倶に生ず是の十六の沙弥 具足して仏道を行じて 今現に十方に在って 各正覚を成ずることを得たまえり」とある。意は、大通智勝仏(だいつうちしょうぶつ)が三千塵点劫の昔に出現して法華経を説いたときに、十六人の王子がいた。十六番目の王子が釈尊であり、この王子たちがそれぞれの場所で法華経を説き、六百万億恒河沙等の衆生を導いた。これを大通覆講と言う。この時に、法を聞いた衆生を大通結縁の衆という。その後、この諸々の法を聞いた衆生は、あらゆる仏土に常に師(十六王子)と共に出生する因縁が明かされている。このことについて、日顕上人は「我々の因縁の姿から見るときには、仏法の上において、我々がある師匠によって仏道に導かれたならば、未来永劫にわたってその師匠の元に生まれてきて仏道を修行していくことになるのである、ということであります」と仰せです。

○「若し法師に親近せば速やかに菩薩の道を得、是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつることを得ん」法華経法師品第十の文。この経文について、日顕上人は「この『法師』とは即ち邪法と正法とを立て分けて、正しく法を説く師という意味であります。その意味においては法華経を正しく説く師匠が真実の法師ということでありまして、(乃至)この法師に親しんでいくならば正しい修行、即ち悪を破して善を増長してゆくところの菩薩の境界を得ることができると説かれ、また、その師匠にどこまでも随順して学んでいくならば常に仏の境界を得るようになり、あるいは仏様の立派な功徳に荘厳せられた世界に生まれ、立派な方々にお値いして我々の仏道を増進することができるのである、ということを説かれておるのであります」と仰せです。

○「本此の仏に従ひて初めて道心を発し、亦此の仏に従ひて不退の地に住す」妙楽大師の法華玄義釈籤に示される文。日顕上人は、「この文は一往、釈尊仏法に因縁のある衆生のことを言われた文でありますが、久遠の昔から釈尊が色々と化導をされてきた、その本において釈尊に縁して道心を起こした人、その人はやはり同じ釈尊に従って初めて不退という位に住するのである、ということであります」と仰せです。

○不退――不退転のこと。三種あり。一に「位不退」これは煩悩に侵されることなく信を持つこと。二に「行不退」菩薩が衆生を教化する上に妨げとなる塵沙の惑を断じ、退転なきこと。三に「念不退」は、一切の煩悩を立ち心が動かないこと。日蓮大聖人様の仏法の上からは、本門戒壇の大御本尊様を信じ、持つことが「位不退・念不退」であり、折伏行に励むことが「行不退」である。

○「初めこの仏菩薩に従って結縁し、またこの仏菩薩において成就す」妙楽大師が法華文句記の第九に示された文。日顕上人は、「一番初めに結縁した仏・菩薩と同じ仏・菩薩によって仏道を成就するのである、ということであります。この文は法華経の文上の義において解釈されたものでありますが、そのなかに「仏菩薩」とありまして、やはり我々を導かれる御方は仏様だけではなく、菩薩も我々を導かれるのであるということが示されております。しかしながら大聖人の寿量品文底の妙法の境界、妙法蓮華経の根本の境界からするならば、仏法のなかの最高の位を極めた仏だけが真実の仏ではなく、むしろ菩薩が真実の仏の意義を持っておるということをお示しであるように拝されるのでございます」と甚深の御指南をされている。

○本従の師――本従(もとより)の師匠という意。本来の師。もともとの師。過去からの師。本師。この御文を顕された当時は、念仏や真言の教がはびこり、本来の師に迷い筋道を違えていた。そこで、先ず経文や釈により、「本来の師匠」が釈尊であることを示される。しかし、これは一往の御指南で、文末の、「日蓮も後生は助け申すまじく候」との御文から、末法の衆生にとっての「本従の師」は日蓮大聖人様ご自身のことであると拝すことが大切である。

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