平成15年 8月 1日 永代経

上野殿後家尼御返事
上野殿後家尼御返事(御書三三六頁)

夫浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず、ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏といふ。これにまよふを凡夫と云ふ。これをさとるは法華経なり。もししからば、法華経をたもちたてまつるものは、地獄即寂光とさとり候ぞ。たとひ無量億歳のあひだ権教を修行すとも、法華経をはなるゝならば、たゞいつも地獄なるべし。此の事日蓮が申すにはあらず、釈迦仏・多宝仏・十方分身の諸仏の定めをき給ひしなり。されば権教を修行する人は、火にやくるもの又火の中へいり、水にしづむものなをふちのそこへ入るがごとし。法華経をたもたざる人は、火と水との中にいたるがごとし。法華経誹謗の悪知識たる法然・弘法等をたのみ、阿弥陀経・大日経等を信じ給ふは、なを火より火の中、水より水のそこへ入るがごとし。いかでか苦患をまぬかるべきや。等活・黒縄・無間地獄の火坑、紅蓮・大紅蓮の氷の底に入りしづみ給はん事疑ひなかるべし。
法華経の第二に云はく「其の人命終して阿鼻獄に入り是くの如く展転して無数劫に至らん」云云。故聖霊は此の苦をまぬかれ給ふ。すでに法華経の行者たる日蓮が檀那なり。経に云はく「設ひ大火に入るとも火も焼くこと能はじ、若し大水に漂はされんに其の名号を称せば即ち浅き処を得ん」と。又云はく「火も焼くこと能はず水も漂はすこと能はず」云云。あらたのもしやたのもしや。

【意訳】
淨土も地獄も別々ではなく、私たちの心の中にあります。このことを悟るを仏と言い、迷うのが凡夫です。これを悟ることを教えるのが法華経です。このように理解すれば、御本尊様を持(たも)つことが地獄即寂光であると悟ることになります。たとえ永い永い間、権教を修行しても、御本尊様を離れたならば常に地獄です。これは日蓮が申し上げるのではありません。釈迦仏や多宝仏や十方の諸仏が定められたことです。したがって、権教を修行する人は、火に焼かれる者はなお強い火に焼かれ、溺れている者が、さらに深い所に入るようなものです。御本尊様を持たない者は、炎に焼かれ、水中で溺れているようなものです。法華経を誹謗する悪知識である法然や弘法を頼みとして、阿弥陀経、大日経を信じるのは、さらに強い火の中に入り、なお深い水中に沈むようなものです。決して苦しみから離れることはありません。等活地獄・黒縄地獄・無間地獄の火の坑、また紅蓮地獄・大紅蓮地獄の氷の底に沈むことは疑いありません。
法華経の第二の卷、譬喩品第三には「法華誹謗の者は、臨終の後阿鼻地獄に入り、一劫を経人となり、また阿鼻地獄に堕るという繰り返しの後、ついに浮かぶことがない」と説かれています。しかし、亡くなられたご主人は、このような苦しみに会うことはありません。なぜならば、すでに法華経の行者である日蓮の檀那です。法華経の観世音菩薩普門品第二十五には、「たとえ大火に入るとも火も焼くことが出来ない。もし大水に漂うようなことがあっても、南無妙法蓮華経と唱えれば浅瀬に着くことが出来る」とあります。また、法華経の薬王菩薩本事品第二十三には「火も焼くことが出来ない、水も漂わすことが出来ない」とあります。実に頼もしいことです。

【解説】
地獄も浄土も別にあるのではない、と仰せです。これは、法華経の極理、十界互具百界千如・一念三千の御法門の上から御指南になるものです。ゆえに、

一、私たちの住む娑婆世界の外に極楽浄土があるように思うのは、現実からの逃避であり、そのようなことを教える宗教は真実の教ではありません。

二、「さとる」とは仏の言葉を「信ずること」です。「まよう」とは「信じないこと」です。御本尊様を信じ南無妙法蓮華経と唱えることがすでに「悟り」の境界であり、仏界を涌現していることになる、と教えて下さいます。大聖人様のお言葉を「無疑曰信」することが第一です。

三、「火も焼くこと・・」は、煩悩の燃えさかる炎にも焼かれることなく、怨みや妬み風聞が渦巻く中にあっても流されることなく、苦を楽に、迷いを悟りへと転換し、凛とした生命を確立することができる、と御本仏の大確信から御教示下さいます。

拝読の箇所は以上三点に要約できます。暑さに負けないように、ご精進をお祈りします。

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