平成15年 8月 3日

撰時抄愚記
撰時抄愚記(日寛上人が撰時抄をご講義されたもの)

行者当に知るべし、信心ありと雖も、唱題の行なくんば、譬えば盲(め)しいずして跛(あしなえ)たるが如し。唱題ありと雖も、若し信心なくんば、譬えば跛(あしなえ)たらずして盲(め)しいたるが如し。若し信行具足するは猶二つながら全きが如し。百論の「盲破の譬」これを思い見るべし。故に能く信心の目を開き、唱題修行の足を運ぶべし。若し爾らば能く通じて寂光清涼地に到らんこと、何ぞこれを疑うべけんや。

■通解
信仰をするものは心すべきである。たとえ信ずる心があっても、唱題の修行がなければ、目が不自由でもないのに、歩くことが出来ないようなものである。若し信ずる心がないと言うことは、譬えて言えば、足は悪くないが、物が見えず歩くことが出来ないようなものである。若し信心と修行の両方を具えるならば、目も足も完全な働きをするようなものである。百論の「目の不自由な人と、足の不自由な人の譬え」を思うべきである。ゆえに、よく信心の目を開き、唱題修行の場に足を運ぶべきである。もしそうであるならば、仏の智恵に照らされた清浄で涼やかな池に到達することが出来る。どうしてこのことを疑うことがあろうか。

【盲破の譬】智恵のない師を盲にたとえ、実践のない弟子を跛にたとえている。

【清涼池】法華玄義等に説かれる、智目行足・到清涼地の文。「ちもくぎょうそく・とうしょうりょうち」と読む。智慧を目に譬え、修行を足に譬える。この両方を兼備することにより、清涼池に到達するという意。清涼の地とは成仏の境地のこと。

玄義巻二上には「智は行の本たり、智目に因って行足を起す。目足及び境の三法を乗と為し、是の乗に乗じて清涼池に入る」とある。

意味は、信仰の対象である境(御本尊)と、衆生の智慧(智)と、その智慧によって起こす修行(行)の三法が具足して成仏の境地(位)に到達すると言うこと。

「智は行の本」とあるが、日寛上人は文底秘沈抄で、
「『智目行足をもって清涼池に到る』云々。宗祖の云わく『信を以て慧に代う』」
と四信五品抄を引かれて御指南されている。

御意は、我等富士大石寺の教は、信をもって智慧に代える(以信代慧)教である。したがって、本門戒壇の大御本尊様に的を定め、信行具足の唱題に励むことが成仏の道である、ということである。

今月は日寛上人の御正当の月です。暑さに負けることなく、清浄で涼やかな池に入ることが出来るように信行具足の唱題に励みましょう。

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