平成15年 9月 1日

上野殿後家尼御返事
上野殿後家尼御返事(新編御書三三七頁)

詮ずるところ、地獄を外にもとめ、獄卒の鉄杖、阿防羅刹のかしゃくのこゑ別にこれなし。此の法門ゆゝしき大事なれども、尼にたいしまいらせておしへまいらせん。例せば竜女にたいして文殊菩薩は即身成仏の秘法をとき給ひしがごとし。これをきかせ給ひて後はいよいよ信心をいたさせ給へ。法華経の法門をきくにつけて、なをなを信心をはげむをまことの道心者とは申すなり。天台云はく「従藍而青」云云。此の釈の心はあいは葉のときよりも、なをそむればいよいよあをし。法華経はあいのごとし。修行のふかきはいよいよあをきがごとし。地獄と云ふ二字をば、つちをほるとよめり。人の死する時つちをほらぬもの候べきか。これを地獄と云ふ。死人をやく火は無間の火炎なり。妻子眷属の死人の前後にあらそひゆくは獄卒・阿防羅刹なり。妻子等のかなしみなくは獄卒のこゑなり。二尺五寸の杖は鉄杖なり。馬は馬頭、牛は牛頭なり。穴は無間大城、八万四千のかまは八万四千の塵労門、家をきりいづるは死出の山、孝子の河のほとりにたゝずむは三途の愛河なり。別に求むる事はかなしはかなし。此の法華経をたもちたてまつる人は此をうちかへし、地獄は寂光土、火焔は報身如来の智火、死人は法身如来、火坑は大慈悲為室の応身如来、又つえは妙法実相のつえ、三途の愛河は生死即涅槃の大海、死出の山は煩悩即菩提の重山なり。かく御心得させ給へ。即身成仏とも開仏知見とも、これをさとりこれをひらくを申すなり。提婆達多は阿鼻獄を寂光極楽とひらき、竜女が即身成仏もこれより外には候はず。逆即是順の法華経なればなり。これ妙の一字の功徳なり。

■通解
結局のところ、地獄は私たちの心の外にあるのではありません。獄卒がふりかざす鉄の杖も、阿防羅刹が呵責する声も私たちの心の中にあるのです。このように大切な内容が含まれている法門を尼御前に対して教えてさし上げます。例えて言えば、竜女に対し、文殊菩薩が即身成仏の秘法を説かれたようなものです。ゆえに、この法門を聞いた後は、益々強盛な信心にお励み下さい。即身成仏が説かれた法華経の教を度々聞き、いよいよ信心に励むことができる人を真実の道心者と言います。このことを天台大師は「従藍而青」と教えています。意味は、藍は葉の時よりも染め上げたときの方がより青くなることから、法華経を「藍」に、修行に励む者を「青き」に譬えて示されるのです。(素直に信ずること)
爾前経の教では、地獄の二字を「土を掘る」と読みます。人が亡くなると土を掘って埋葬することを地獄というのです。火葬の時の炎は無間地獄の炎です。妻子や眷属が死者の前後で争うのは獄卒や阿防羅刹の姿です。妻子等が悲しみ泣く姿は獄卒が呵責をする声です。棺に入れる二尺五寸の杖は獄卒の持つ鉄杖です。馬は地獄に住む頭が馬で身が人間の姿をした獄卒であり、牛は頭が牛で身が人間の姿の獄卒です。穴は無間大城を顕し、八万四千のかまは無数の煩悩に苦しむ姿です。家から出るのは死出の山に登ることであり、孝子が河のほとりにたたずんでいるのは三途の愛河です。これより外の解釈はありません。
しかし、この法華経を持ち奉る人はこのようなことを転じ、地獄は寂光の宝土、火焔は報身如来の智火、死人は法身如来、火坑は大慈悲為室の応身如来、また杖は妙法実相の杖、三途の愛河は生死即涅槃の大海、死出の山は煩悩即菩提の重山であると心得ることです。即身成仏とも開仏知見とも言うのも、このことを悟り、開くことを言います。提婆達多は阿鼻地獄を寂光極楽と開きました。竜女の即身成仏もこの法華経の功徳以外にはありません。順縁も逆縁も成仏することができる法華経の功徳ならばこそです。これが妙の一字の功徳です。

【ポイント】
一、現実の姿の上から、「成仏」と「地獄」の相違を指摘され、尼御前の信心を励まされる箇所です。即身成仏の深い教を学んだ尼御前は夫の菩提を弔うため、また残された子供たちのために信心に励み「なをなを信心をはげむをまことの道心者とは申すなり」との仰せのままの信仰でした。この母あって時光と言う子供が育ったのです。
二、「逆即是順の法華経なればなり」とは、逆縁の代表としてあげられる提婆達多でさえ法華経において天王如来の授記を受け、畜生の竜女も成仏の功徳に浴していることを示され、法華経を信じ持つ功徳のはかりしれないことを御指南下さっている。順縁も逆縁もともに成仏に導いて下さる御本尊様の偉大さをここで述べられている。「逆即是順の御本尊様」との御指南をしっかりと拝さなくてはならない。それは即「折伏」に通じるものである。

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