平成15年10月 1日

上野殿後家尼御返事
上野殿後家尼御返事(新編御書三三八頁)

竜樹菩薩の云はく「譬へば大薬師の能く毒を変じて薬と為すが如し」云云。妙樂大師云はく「豈伽耶を離れて別に常寂を求めん、寂光の外別に娑婆有るに非ず」云云。又云はく「実相は必ず諸法、諸法は必ず十如、十如は必ず十界、十界は必ず身土なり」云云。法華経に云はく「諸法実相乃至本末究竟等」云云。寿量品に云はく「我実に成仏してより已来無量無辺なり」等云云。此の経文に我と申すは十界なり。十界本有の仏なれば浄土に住するなり。方便品に云はく「是の法法位に住して世間の相常住なり」云云。世間のならひとして三世常恒の相なればなげくべきにあらず、をどろくべきにあらず。相の一字は八相なり、八相も生死の二字をいでず。かくさとるを法華経の行者の即身成仏と申すなり。

【現代語訳】

 竜樹菩薩は大智度論で、「たとえて言えば、偉大な医師は毒を薬として用いることができる」と説き、妙楽大師は法華文句で、「悟りを得た伽耶城を離れて常寂光土を求めてはならない、また常寂光土の外に娑婆世界があるのではない」と説き、金金卑(ぺい/金へんに卑)論では、「実相は必ず諸法であり、諸法は必ず十如であり、十如は必ず十界であり、十界は必ず身土である」と説き、法華経方便品には「諸法実相乃至本末究竟等」と説かれ、また寿量品には、「我実に成仏してより已来無量無辺である」等と説かれています。この経文に説かれる「我」とは十界の衆生のことです。十界の衆生は「本有の仏」ですから、淨土に住しているのです。方便品には、「是の法法位に住して世間の相常住なり」と説かれます。

 人が亡くなることは、世間の習いであり、過去・現在・未来の三世に亘って常に変わらない相ですから嘆くべきことではなく、驚くべきではありません。「相」の一字は八相のことです。この八相も生死の二法を離れることはありません。このように悟ることが法華経の行者の即身成仏です。


【ポイント】

 前段で「それ淨土と云ふも地獄と云ふも外には候はず、ただ我等が胸に間にあり」との仰せを、法華経や竜樹や妙楽等の釈を引いてさらに御指南になるところです。竜樹の説く「変毒為薬」は末法においては御本尊様の教である、と拝することが大切です。次の法華文句は、釈尊成道の地である伽耶城もこの娑婆世界にあることを示し、娑婆世界を穢土を厭う念仏の教の誤りを破折されているところです。また、金c論と方便品の「諸法・・」について、『諸法実相抄』には、「実相と云うは妙法蓮華経の異名なり、諸法は妙法蓮華経と云う事なり(中略)万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」とあります。この妙法を大聖人様は一念三千の御本尊様として顕され、私たちの首にかけて下さいました。ゆえに、「身土」つまり正報・依報のすべては妙法蓮華経であり、我が身は仏身であり、我等が住する国土は常寂光土となるのです。そのことを悟ることが成仏であるとの御指南です。

 さらに、寿量品の文を引用されます。この経文の本来の意味は釈尊の成道を説くところですが、大聖人様は御本仏の御境界の上から、ここでは、十界の衆生は「本然的に仏性を有している」が、そのことを知らないゆえに「迷い」から脱することができない、しかし、己身の仏性を悟った時が仏であり、その国土は淨土である、と御指南をされます。

 次の方便品の文、「是法・・」は、世間の移り変わる流転の相もそのまま常住であると言うことです。世の中のものはことごとく移り変わり、次々に変化しているように見えます。しかし、方便品において説き明かされる十界互具を信受することは、十界各々に仏性を具えている「常住仏性」を感得することになります。つまり、「生命の永遠」を御教示になるのです。ゆえに、生命の最も根源にある「生死の姿」それ自体も「三世常恒の相」であると仰せになるのです。そこで、死は嘆くことではない、と尼御前を励まされ、「即身成仏」の要件を御指南下さいます。

 私たち凡夫の感覚からすれば、苦しみや悩み、また恐れや怒りの充満した娑婆世界ですが、実は苦しみの中に楽しみが、悩みの中に喜びがあることを教えて下さり、「娑婆即寂光」を理解することにより、人生で最も大きな問題である「生死」を超越した、強い生命力を獲得する功徳が具わることを学ぶことができます。

 御本仏日蓮大聖人様の、厳しくも温かい御指南を戴いた南条時光の母は、信仰の確信を強く持ち、遺された子供たちと共に懸命に精進を重ね、大きな功徳につつまれた生涯をおくることができました。

文責編集部 転載複写等禁止