平成15年 12月14日 御講

折伏
 皆さま今日は。年末の忙しい中をわざわざ足を佛乗寺にはこばれ、大聖人様の御報恩御講を努められます。この実践により大聖人様より無量の功徳を頂戴することが出来ます。過去遠々劫の罪障消滅は疑いのないところであり、また、ご先祖やご兄弟を始めご縁の方々にもこの御本尊様の功徳をお分けすることが叶う修行です。さらに、貴い浄財を御供養としてお供えされるお心は 日女御前御返事(1388頁)で

「かゝる御本尊を供養し奉り給ふ女人、現在には幸ひをまねき、後生には此の御本尊左右前後に立ちそひて、闇に灯の如く、険難の処に強力を得たるが如く、彼こへまはり、此へより、日女御前をかこみまぼり給ふべきなり」

と仰せ下さる如きです。大聖人様の仰せは、「この御本尊様に御供養をされる女性は、現在には幸いを招きよせることができます。来世にはこの御本尊様が何処へ行く時にも立ち添って下さいます。暗やみの中に入った時には証明となり、険しい道にさしかかった時には強い力の者があらわれて助けるように、何処に行こうとも貴女のことを助けます」と言うことです。男性の方がっかりしないで下さい。男女平等の御本尊様ですからご心配にはおよびません。共に、御本尊様を御守りする御信心に、御本尊様からの御加護があります。ご安心下さい。

 さて、本日は第一回目の「新築後供養の日」です。皆さまにご苦労をお掛けすることは、住職と致しましては、誠に心苦しい限りです。ただ、階段を上がったところに掲示しております写真を見てお分かり頂けるように、そう悠長なことはいっておられません。地震の度にビクビクするような現状です。御本尊様にもしものことがあったならば、と思うと気が気ではありません。

 皆さまにはこの状況を賢察され、多大なる真心を示してくださり有り難く存じます。経済的に非常に厳しい時でありますから、有り難さは尚更です。ただ、もう一つの味方をすれば、建築費が安い今がチャンスだとも言えます。どちらにせよ、前御住職の高橋信興御尊師が計画されながらも諸般の事情で実現しなかったことを受け継いでの事業です。これも御本尊様の御信心から拝するならば、「時」と言うことですから全ては「ご仏意」であると私は思います。ご参詣の皆さまには「佛乗寺新築の意義」をよくご理解戴き、目標達成を御祈念戴きたいと思います。

 今日は来年に向かって折伏の御書を通してを学びたいと思います。「また折伏」と思ったでしょう? 総代さん。「またか」とお顔に書いてますよ。でもそう思って戴いて結構です。実は日蓮正宗ではこのようなことが言われているのです。「一年中、同じ話をすることができて始めて一人前の日蓮正宗の僧侶である」と。コロコロ話を変えてはならないのだ、いつも一点を目指して進む宗旨の僧侶なんだから。このような意味でしょうか。そう思って御書を拝読いたしますと、広宣流布と折伏の御指南ばかりです。大聖人様も365日「折伏」を第一として「法華折伏・破権門理」と信心修行の旗印とされていたのです。師走の御講にあたっても「折伏」の話で、「またか」と思われることは僧侶としての本懐です。

 皆さんは折伏をする時にはどのように切り出したらよいのか思案をする時があると思います。近しい人とそうではない人、近所の人や会社の人。また相手の信仰も、念仏や真言宗や禅宗などのいわゆる伝統仏教と言われるものから、新興宗教の霊友会や立正佼成会、あるいは創価学会も新興宗教ですね。幸福の科学もあります。実にさまざまですが、その中でも特に破折をする相手として池田創価学会が挙げられます。

 よく、「創価学会より念仏や真言の方が折伏をしやすい」と言います。私もその意見に賛同します。実際の所、学会員への折伏では「よくぞこれまで洗脳されるものか」と感心するやら哀れになるやら。

 ところが、大聖人様の仏法は実に偉大なんです。そのことを「下種」という上から考えてみますと、「下種」を簡単に申し上げますと、「種を下す」ことです。「種」は成仏の種です。釈尊の種下すとは「植える・蒔く」ことです。種は仏になることのできる種。釈尊の仏法では、釈尊が法を説かれた時が「下種」になります。その後「歴劫修行」と言いまして、永い永い間修行をして成仏をするのです。まさに、春、種を蒔き、水をやり肥料を与え、時には植え替えて手間暇をかけて育て、やがて秋になって実をつけ収穫をする農作物に例えることができます。それに対して、その成仏の過程を釈尊の仏法では、過去に植えられた種が段々と調えられ成長し(熟)やがて実をつけて(脱)するという三段階に分けています。これを種熟脱の三益と言いますね。在世の法華経の修行の中で得脱した者、また在世の法華経に漏れた者は、正法一千年の間の小乗教・権大乗教を修行することによって得脱し、また像法千年の衆生は天台の観念観法を修行することにより得脱をしました。

 この筋道が、釈尊の仏法です。ところが、末法においては釈尊の説いた教「釈尊が下ろした種は芽が出なくなっています。なぜ芽が出ないか、草花の種でも発芽するものとそうでないものがあります。同じ種であっても、発芽しない原因として、気候や土壌、手入れの仕方等々のことがあります。

 仏法も同じことが言えます。そのことを大集経で「白法隠没」とハッキリ宣ています。白法とは釈尊の教え、釈尊の下種です。種が無くなります。種子が発芽しない、つまり腐ってしまうのです。そこで大聖人様は、

御義口伝(御書一七九五頁)
「此の妙法等の五字を末法白法隠没の時、上行菩薩御出世有って五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏すべしと経文に親り之在り」


と仰せになるのです。

 末法の御本仏日蓮大聖人様の下種は、南無妙法蓮華経の御本尊様を受持することにより即座に仏になることができる、「直達正観」と言い、直ちに正しい観心に達することが叶い、即身成仏するのです。

 大聖人様の下種は三大秘法の南無妙法蓮華経を教えることですね。だから折伏が大切になるのです。
そういたしますと、平成3年以前に日蓮正宗の御授戒を受け、代々の御法主上人の御本尊様を受持したことのある人は「下種」を受けている事になります。下種を受けた創価学会の人たちは、春になってせっかく芽が出かけたのに、冬に逆戻りした状態ですね。

 作物の種に例えますと、彼らは種に水もやらなければ肥料も与えない、気温も上がらない、真っ暗な中に閉じこめているようなものでしょう。高価で貴重な種であっても芽が出ないのでは収穫を期待することはできませんね。

 ここでの種を「因」、収穫を「果」と致しますと、水や肥料は「縁」と言えます。縁は大切なんですね。

 皆さんお経本を開いてください。方便品の最後十如是に如是因・如是縁・如是果とありますね。因・縁・果。
「縁」が因と果の間にあります。これは、因を縁が変えることを表しております。いくら善い因があっても、悪縁に値えば悪い果を招くことになります。反対によい縁であれば善い果を招くことになるのです。

 私たち法華講員の役目が明らかになります。私たちは大聖人様の弟子ですね。弟子なんて恐れ多いと思っていますか? 謙虚で結構ですが、弟子の誇りを忘れてはなりません。善き縁は私たちの役目です。創価学会という悪縁の中にある人たちに、「富士大石寺に御安置の本門戒壇の大御本尊様に御開扉を受けて始めて罪障消滅の功徳がある」と言うところから、善き縁を結ぶ実践が始まります。その時に示す御書が『四条金御殿御返事』(1502頁)の

「毎年度々の御参詣には、無始の罪障も定めて今生一世に消滅すべきか。弥はげむべし、はげむべし」


ですね。四条金吾さんが毎年毎年大聖人様のもとへ参詣される姿をお誉めになり「過去遠々劫の罪障も今生の信心修行によって消滅します。ゆえに、ますます励むべきです、ますます励むべきです」と御指南になられることを今一度思い出しなさいよ、と言います。かつてあれほど大御本尊様に御開扉を受けに登山することが大切だと言っていた心をもう一度思い出させてあげようではありませんか。学会員に対しての折伏はここから始めましょう。裁判やその他のことは枝葉末節です。根本の大御本尊様を先ず思い出させることです。まだ分からないものには、日寛上人の「法華取要抄文段」

「正に本門戒壇の本尊所住の処、即ちこれ根源なり。妙楽云く「像末の四依、仏法を弘宣す。化を受け、教を禀け、須く根源を討ぬべし。若し根源に迷う則は増上して真証に濫る」等云云。今、日本国中の諸宗・諸門徒、何ぞ根源を討ねざるや。浅間し浅間し」

を教えましょう。本門戒壇の大御本尊様御座しますところが根本であり、源でありその根源に迷う者は増上慢であり真実の功徳を受けられない、即ち謗法である、と言う御指南です。分かりやすい御文ですね。いくら南無妙法蓮華経と唱えていても、日蓮大聖人 本門戒壇の大御本尊様から離れたお題目は「増上慢」のお題目だ、と日寛上人がハッキリと御指南です。

 少し話が変わりますが、大量破壊兵器は未だ発見されておりません。イラクに侵攻する正義はもはやありません。侵略戦争であったと言えます。ところが、そのイラクに自衛隊を派遣することが決まりました。復興支援といえば聞こえがよいのですが、はたしてこれでよいのでしょうか。

 しかも、不可解なことに、自民党でも元幹事長の加藤紘一や古賀誠一などが派遣に反対している中で、公明党が率先して賛成に回ったことです。12日の新聞によりますと「公明党がブレーキになる」と言っているようですが、彼らの言うことと行動が正反対であることも言ってあげましょう。

 次に折伏の相手としては念仏や真言・禅宗の人たちです。

 そこで先ずお経文を引用します。『無量義経』です。この経文は法華経の開経としての位置にあります。開経とは字の如く「法華経を開く」という意味です。これから真実の教えである法華経を説きます、と言うことです。その中で、

「善男子、我先に道場菩提樹下(どうじょうぼだいじゅげ)に、端坐(たんざ)すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説(せんぜつ)すべからず。所以は何ん。諸の衆生の性欲不同(しょうよくふどう)なることを知れり。性欲不同なれば種種に法を説きき。種種に法を説くこと、方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別(とくどうさべつ)して、疾(と)く無上菩提(むじょうぼだい)を成ずることを得ず」

 善男子とは善き男性諸君、ですね。我は仏様です。道場菩提樹下は菩提樹の下の道場、つまり悟りを開くために修行をした菩提樹の下で端座は正座、行儀正しく座る。六年の間そのような修行に励み、ついに阿耨多羅三藐三菩提を成じた、と。阿耨多羅三藐三菩提はこの上もない円満で平等の悟りのことです。「仏眼を以て」とは、悟りを開いた仏の目で一切の諸々の法を見ると、悟りの全てを宣るわけには行かない、何故ならば「性欲不同」だからと言うのです。性欲とは、衆生の性質と欲望です。それが「不同」ですからそれぞれが異なっており同じではない、ということです。「性」は過去世に善悪の業因によって習い修めた衆生の性分をいい、欲とはその性によって起こる現世のさまざまな欲望をいう。また釈迦は衆生の性質・欲望が同一でないことを知って四十二年間に爾前の諸経を方便として説き、衆生の機根を調えてから出世の本意である法華経を演説したことをいう。ここで明かです。「40余年の間、真実を顕さず」ですから、「衆生の成仏も差別があったのです。疾(とく)はすみやかの意ですから、爾前の教えにしたがって修行に励んだところで成仏はできないことを述べられています。

 法華経方便品第二にも

「我、智慧力を以って、衆生の性欲を知って、方便して諸法を説いて、皆歓喜することを得せしむ」


とありますのは、仏さまの智慧により、衆生の様々な機根にあわせて教を説き、段々に導かれたことが述べられています。方便とは、「仮りの教え」と言うことですから、現在使われている「嘘も方便」という諺も法華経からでた言葉です。

 この様にお経文の中で明らかに説かれているのですから、なにも自分の言葉で言う必要はありません。あくまでも「お経文」なのです。


【折伏の心構え】

『方便品第二』
「如来は能く種種に分別し、巧に諸法を説き、言辞柔軟にして、衆の心を悦可せしむ」


 「如来」は仏さまのことです。「言辞柔軟」は柔らかに柔軟にと言うことです。「衆の心を悦可せしむ」とは衆生の心を悦ばすことです。

 したがって、仏さまが折伏をされる時には、相手のおかれている状態を見て、巧みに諸々の教えを説かれ、言葉は柔らかく、その上相手を悦ばして導かれるのです。ただし、「悦ばす」のはお世辞を言うことではありません。真実の教えに導かれた悦びの意です。

 御書には「強い言葉」と「柔らかい言葉」について次のように仰せです。

『善無畏三蔵抄』(四四五頁)
「仮令強言なれども、人をたすくれば実語・軟語なるべし。設ひ軟語なれども、人を損ずるは妄語・強言なり。当世学匠等の法門は、軟語・実語と人々は思し食したれども皆強言・妄語なり。仏の本意たる法華経に背く故なるべし。日蓮が念仏申す者は無間地獄に堕つベし、禅宗・真言宗も又謬りの宗なりなんど申し候は、強言とは思し食すとも実語・軟語なるべし」


と。道理を説く上で大切な心構えです。


【折伏の功徳】

『南条平七郎殿御返事』(三二二頁)
「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還ってとがに行なはれんが如し」


 意味は、大きな善根を積み、法華経を一千万部書写し、一念三千の観法を修行し悟りを得たとしても、法華経の敵(かたき)を責めないのであれば成仏はかないません。例えて申せば、朝廷に数十年の長きにわたって奉公したとしても、君主の敵を知りながら報告もせず自らも防ごうとしないならば、それまでの奉公の功績が全て消えてしまうばかりか、かえって罪になるようなものです。「法華経の敵を責め」るとは折伏のことです。御本尊様を持っていたとしても、折伏をしなければ成仏の功徳は消えてしまいます。反対に、御本尊様の教えを持(たも)ち敵を責れば、成仏の功徳を得ることができるのです。折伏は病気や経済的な苦しみ、また、親子や友人等の対人関係での悩みなどを解決する一番の方法です。四苦八苦と言われる多くの苦悩の中で私たちは日々を生きております。これらを解決する方法は、御本尊様に手を合わせ、南無妙法蓮華経と唱え、さらに御本尊様のことを教えて行く修行以外にないと心得て、大聖人様の御指南のままに精進をしようではありませんか。

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