日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成16年4月11日 御報恩御講

折伏
開目抄(新編御書五六六頁)

 記の十に云はく「恐くは人謬り解せん者、初心の功徳の大なること識らずして、功を上位に推り、此の初心を蔑ろにせん。故に今、彼の行浅く功深きことを示して、以て経力を顕はす」等云云


 初信の功徳を示され、御本尊様の御利益の大きいことを教えて下さる御文です。




曽谷殿御返事(新編御書一〇三九頁)

 涅槃経に云はく「若し善比丘あって法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり。若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是我が弟子、真の声聞なり」云云。此の文の中に見壊法者の見と、置不呵責の置とを、能く能く心腑に染むべきなり。法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑ひなかるべし。南岳大師の云はく「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云。謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなしはかなし



【通解】

 涅槃經には「仏の教えをよく守り修行に励んでいる比丘がおりました。ところが、佛法を破壊する者を見ながら、その者に間違いを指摘したり注意をしたり叱責したりせずにそのまま放置したならば、その比丘は仏の教えに背く者です。反対に誤りを指摘し正しい方向に導くように努力する者こそ、我が弟子であり真実の修行者です」とあります。この経文にある、誤りを見ながら何もせずに放置することが謗法であることをよくよく心に刻み込んでおかなくてはなりません。御本尊様に敵対する者を見ながら、素知らぬ顔をして放置しておいたならば、師匠も弟子も共に無間地獄の苦しみを受けることは疑いありません。南岳大師は、「仏道を修行しようとも謗法を容認していたならば多くの悪人と同じように地獄に堕ちる」と述べています。謗法を責めずに成佛を願うことは、炎のなかに水を求め、水の中に炎がないか探すように儚いものです。




四信五品抄(新編御書一一一五頁)

 問ふ、汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。答ふ、此の人は但四味三教の極位並びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将又真言等の諸宗の元祖・畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍なり。請ふ、国中の諸人我が末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば八十万億劫供養せし大菩薩なり。豈煕連一恒の者に非ずや。退いて未来を論ずれば、八十年の布施に超過して五十の功徳を備ふべし。天子の襁褓に纏はれ大竜の始めて生ぜるが如し。蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ


【通解】

 質問いたします。、佛法の理解が全くできないあなたの弟子が、ただ南無妙法蓮華経と唱えて得る位はどのようなものでしょうか。答えます。無智であっても南無妙法蓮華経と唱える人の位は、法華経以前に説かれた諸経を始め、円教の中で示される最高の位をも超越するばかりか、真言等の諸宗の元祖である、善無畏・智儼・慈恩・吉藏・道宣・達摩・善導等の祖師たちよりも百万倍・一千倍も勝れています。したがって国中の人々は我が弟子を軽視してはなりません。なぜこのような尊い位を得ることができたのかを過去世にさかのぼって考えてみれば、八十万億劫もの長い間、無量の仏に供養した大菩薩です。過去世にガンジス川の砂の数ほどの仏にしたがって修行に励んだ者たちです。また未来のことを申すならば、八十年の間布施行を行う者に超過し、五十の功徳を備えることができるのです。例えば天子がおむつに包まれたようであり、大竜の子供のような存在です。決してあなどってはなりません。あなどってはなりません。




開目抄 (新編御書五四〇頁)

 されば日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし


【通解】

 日蓮の法華経を理解する力は天台大師や伝教大師のそれには千万分の一つも及びませんが、法華経の弘通によって受ける法難を堪え忍ぶ慈悲においては天台大師や伝教大師も恐れをいだくでありましょう。




曽谷殿御返事(新編御書一〇四〇頁)

 此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆らふ道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然れどもいまだこりず候


【通解】

 法華経の法門を日蓮が説く故に、忠言耳に逆らう、との道理の上から、流罪されたり命を絶たれるようなこともありました。しかし、未たに懲りないで折伏に精進をしております。




佐渡御書(新編御書五八二頁)

 此の八種は尽未来際が間一つづつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚まり起こせるなり。譬へば民の郷郡なんどにあるには、いかなる利銭を地頭等にはおほせたれども、いたくせめず、年々にのべゆく。其の所を出づる時に競ひ起こるが如し。「斯れ護法の功徳力に由る故なり」等は是なり。法華経には「諸の無智の人有って悪口罵詈等し刀杖瓦石を加ふ。乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向かって、乃至数々擯出せられん」等云云。獄卒が罪人を責めずば地獄を出づる者かたかりなん。当世の王臣なくば、日蓮が過去謗法の重罪消し難し。日蓮は過去の不軽の如く、当世の人々は彼の軽毀の四衆の如し。人は替はれども因は是一なり


【通解】

 (一、人から軽く扱われる。二、顔形が良くない。三、着る物がない。四、食べ物が粗末である。五、財物を得られない。六、貧しい家に生まれる。七、邪見の家に生まれる。八、国王から迫害を受ける。)と言う八種類の難は未来に一つずつ起るものであったのですが、日蓮が強く折伏をする故に、一時に出てきました。例えば、借財がある領民も土地に居着いて働いている間は取り立てもゆるやかであるけれども、土地を離れることになったならば一時に取り立てがくるようなものです。未来まで持ち越してゆかなければならないはずの重罪を、法を護る功徳で今生にまとめて受けることができさらに消滅することができるのですからありがたいことなのです。法華経の勧持品十三には、「多くの佛法に無知な者がおり、悪口を言ったり罵ったり、刀や杖で打ったり、瓦や石をなげつけたりす。(中略)国王や大臣や婆羅門や居士に向かって告げ口をする。(中略)しばしば所を追い出される」等説かれています。獄卒がいて罪人を責めることがなかったならば地獄を出ることが出来ないように、現在の王や臣下がいなければ日蓮は過去世の謗法の重い罪を消すことは難しかったのです。日蓮は過去の不軽菩薩であり、現在の人々は不軽菩薩を迫害した比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷です。人は変わっても成佛の因は一つです。




開目抄(新編御書五七七頁)

 慈無くして詐り親しむは、是れ彼が怨なり。能く糾治せん者は、是護法の声聞、真の我が弟子なり。彼が為に悪を除くは、即ち是彼が親なり


【通解】

 慈悲がなくいつわり親しむのは彼にとっては怨になります。よく間違いを糺し治してくれる人は法を護る声聞であり真実の仏弟子です。彼の悪を取り除く行為はすなわち彼の親の役目をします。

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