日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成16年7月1日 永代経

盂蘭盆御書

盂蘭盆御書(御書一三七六頁)
弘安二年七月一三日 五八歳

盂蘭盆御書(御書一三七六頁)

 詮ずるところは目連尊者が自身のいまだ仏にならざるゆへぞかし。自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし。いわうや他人をや。
 しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて「正直捨方便」とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてゝ南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す。此の時こそ父母も仏になり給へ。故に法華経に云はく「我が願ひ既に満じて衆の望みも亦足りなん」云云。目連が色心は父母の遺体なり。目連が色心、仏になりしかば父母の身も又仏になりぬ。


【通解】

 結局のところ、(お父さんやお母さんが成仏の境界を開くことができないのは、子供の)目連尊者が成仏の境界を得ていないからです。自らが仏の境界を開くことにより父母も救うことができます。まして他人においてはなおさらです。
 そこで、目連尊者は法華經の方便品に説かれている通りに、それまでの教えである小乗教の二百五十もの戒律を守る修行を捨てて、ただ南無妙法蓮華経と唱へる修行に励むことになりました。そして、「多摩羅跋栴檀香仏」という成仏の功徳を得ることができました。このとき同時に父母も仏になることが叶いました。したがって法華經には、「いっさいの人々が幸福になるように、と法華経を説き、その実践により私の願いが満たされるときに、すべての人々の望みもかなえられるのです」と説かれています。このように、目連尊者の身と心は両親から受け継いだものです。ゆえに、目連尊者の身と心が仏になることは、父母の身も仏になるのです。


■亡くなった人を大切に思う心が、生きている私たちには必要なこと

 昭和二十年(一九四五年)に敗戦を迎えた日本人は、戦争で亡くなった人々のことを思う強い心がありました。その心は、「生かされている」ことを感謝する心でもあります。つまり、広島・長崎で象徴される銃後の「死」。特攻隊が示す無謀な作戦での兵士の「死」。さらに、侵略を受けた人たちの「死」。そのような「死」の上に今の自分がある、ということです。「生死一如」を実感したからだと思います。

 累々たる屍の記憶が残っているから、もう二度と戦争はしない、と強く誓ったのです。ところが、記憶は薄れます。まして直接の記憶でなければなおさらです。

 歴史は繰り返す、といわれますが、悲惨なことは繰り返してはならないのです。そのためにも亡き方々を忘れてはなりません。そこに私たちが日蓮大聖人様の教えを学び実践する意義があるのです。

 当抄から私たちは追善供養の大切さを学ぶことができます。また、「臨終のことを習ふて後に他事を習へ」(妙法尼御前御返事一四八三頁)と教えて下さいます。自らの臨終はもちろんのことですが、「亡くなった人のこと」を思える自分になりなさい、という意味でもあります。さらに、「いかにもいかにも追善供養を心のをよぶほどはげみ給ふべし」(上野殿後家尼御前御返事三三八頁)と御指南になるのは、「亡き方のこと」を、追善供養を通して記憶にとどめ、大切にすることを教えて下さるのです。

 換言すれば、過去にあったことを見つめ、今日を生きる糧にすることのできる方法を、日蓮大聖人が「大御本尊様の教え」として示して下さったのであり、その一つとして追善供養があるのです。

 少し前までは、お盆やお彼岸には家族揃ってお寺やお墓にお参りをし、亡き方々の供養を行っていました。ところが、核家族などの社会的状況もあり、先祖から受け継いだ追善供養の儀式を「形式」として葬り去り、お盆は、行楽の行事に変わりました。

 このような世の中であるからこそ、日蓮大聖人様が「追善供養をしっかりすること」と教えて下さる意味を正面から受け止めて、まず私たちが実践し周囲の人たちに教えてゆくことが大切です。

 今月の十六日は、日蓮大聖人様が「立正安国論」をもって国家諌暁をされてより七四五年目にあたります。お盆の月に安国論が上呈されたのも深い意義をこめられたものと拝します。

 立正安国論で、大聖人様は、正法が人々を幸福に導き、一人ひとりの幸福は社会の幸福である、と説かれ、「南無妙法蓮華経」と唱える折伏の大切さを教えて下さいます。そこで、お盆の法要を通して折伏の修行に励もうではありませんか。暑い季節ですが皆さまのご精進をお祈りいたします。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺