日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成16年8月8日 御報恩御講

寂日坊御書

寂日坊御書(御書一三九四頁)
弘安二年九月一六日 五八歳

寂日坊御書(御書一三九四頁)

 かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり。法華経の行者といはれぬる事不祥なり。まぬかれがたき身なり。彼のはんくわい・ちゃうりゃう・まさかど・すみともといはれたる者は、名ををしむ故に、はぢを思ふ故に、ついに臆したることはなし。同じはぢなれども今生のはぢはものゝかずならず。たゞ後生のはぢこそ大切なれ。獄卒だつえば・懸衣翁が三途の河のはたにて、いしゃうをはがん時を思し食して法華経の道場へまいり給ふべし。法華経は後生のはぢをかくす衣なり。経に云はく「裸者の衣を得たるが如し」云云。此の御本尊こそ冥途のいしゃうなれ。よくよく信じ給ふべし。をとこのはだへをかくさゞる女あるべしや。子のさむさをあわれまざるをやあるべしや。釈迦仏・法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ。日蓮をたすけ給ふ事、今生の恥をかくし給ふ人なり。後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし。昨日は人の上、今日は我が身の上なり。花さけばこのみなり、よめのしうとめになる事候ぞ。信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱へ給ふべし。度々の御音信申しつくしがたく候ぞ。此の事寂日房くわしくかたり給へ。

 九月十六日                    日蓮花押    


【意訳】

 末法の本仏である日蓮の弟子檀那となった人々は、過去世における深い因縁であると思い、日蓮と同じように、どの様な大きな難がおそってこようとも法華経を弘めるべきです。そして、難を受けることにより法華経の行者といわれるのですから、世間的にいわれるところの、「不詳」はあたりまえのことです。さけて通ることはできません。

 中国の樊膾や張良、日本の平将門や藤原純友たちは、今生での名声を惜しみ、恥をおそれるために最後まで臆病ではありませんでした。同じ恥ではあっても、今生での恥はそう重要ではありません。ただ大事なのは後生の恥です。獄卒や奪衣婆や懸衣翁に三途の川の辺で着ている物をはがされる時の恥ずかしさを想像して、そのようにならないことを願って法華経の道場に参詣すべきでしょう。法華経は後生の恥を隠す衣です。法華経の薬王菩薩本事品二十三に「裸の者が衣を着たようなものである」とあります。この御本尊こそ冥土の旅の衣装です。よくよく信じなさい。夫の肌を隠そうとしない妻はおりません。裸で寒さに震える子供を哀れと思わない親はいません。釈迦仏・法華経は妻や親のようなものです。

 日蓮に供養をして日蓮の身を助けて下さることは、日蓮の今生での恥を隠して下さる人ですから、後生では反対に日蓮があなたの恥を隠します。昨日人のためにしたことが、今日は我が身に返ってくるのです。花が咲けば必ず実がなり、嫁はやがて姑になるようなものです。

 信心を怠らずに南無妙法蓮華経と唱へなさい。たびたびのお便りに御礼の申しようもありません。このことを寂日坊から詳しくお話をしてあげなさい。


【寂日坊】

 大聖人御在世の弟子。千葉県興津の地頭であった佐久間兵庫亮の子供。一家揃って大聖人の信仰に帰依していた。後に小湊の誕生寺を建立した。(五十九世日亨上人の御指南)


【薬王菩薩本事品第二十三】

 仏は為れ諸法の王なるが如く、此の経も亦復是の如し。諸経の中の王なり。宿王華、此の経は能く一切衆生を救いたもう者なり。此の経は能く、一切衆生をして、諸の苦悩を離れしめたもう。此の経は能く、大いに一切衆生を饒益して、其の願を充満せしめたもう。清涼の池の能く一切の諸の渇乏の者に満つるが如く、寒き者の火を得たるが如く、裸なる者の衣を得たるが如く、商人の主を得たるが如く、子の母を得たるが如く、渡に船を得たるが如く、病に医を得たるが如く、暗に燈を得たるが如く、貧しきに宝を得たるが如く、民の王を得たるが如く、賈客の海を得たるが如く、炬の暗を除くが如く、此の法華経も亦復是の如し。能く衆生をして、一切の苦、一切の病痛を離れ、能く一切の生死の縛を解かしめたもう。

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺