日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成16年12月1日 永代経

南条殿御返事

南条殿御返事 新編御書九四九頁
建治二年一月一九日 五五歳

南条殿御返事 (新編御書 九四九頁)

しかるに亦於現世得其福報の勅宣、当於現世得現果報の鳳詔、南条の七郎次郎殿にかぎりてむなしかるべしや。日は西よりいづる世、月は地よりなる時なりとも、仏の言むなしからじとこそ定めさせ給ひしか。これをもておもふに、慈父過去の聖霊は教主釈尊の御前にわたらせ給ひ、だんなは又現世に大果報をまねかん事疑ひあるべからず。かうじんかうじん。
 

【現代語訳】

そのようなわけですから、「現世にはその福の報いを受けることができる」との仏様のお言葉や、「必ず現世において現実の果報を受けることができる」との仏様のお言葉は、南条七郎次郎時光殿に限っては空しいはずがありません。たとえ太陽が西から昇るような世の中になろうとも、月が大地から出るような時になっても、仏様のお言葉の空しくなることはないと決まっております。このような仏様の仰せを拝して今のことを考えてみますと、亡くなられた父上は仏様の御前におられます。そして、御本尊様に御供養をされ、亡き父上の孝養に努める南条時光殿もまた現世に大きな果報を招き寄せることができます。これは疑いのないことです。目出度いことです。目出度いことです。


【語句】

○ 亦於現世得其福報 =法華経普賢菩薩勧発品第二十八の文。「所願虚しからじ。また現世において、其の福報を得ん」とあり、御本尊様を受持する信仰には現世において功徳のあることが説かれている。
○当於現世得現果報=法華経普賢菩薩勧発品第二十八の文。「もしこれを供養し、賛嘆すること有らん者は、当に現世において、現の果報を得べし」とある。ここでは「現の果報」とある。このことから、法華経(御本尊様)の信仰は、この現実世界をいかにすれば改革しよりよいものにするか、を主題にして説かれていることを知らねばならない。
○勅宣・鳳詔=天子、国王の言葉。ここでは仏様のお言葉として用いられている。
○南条の七郎次郎殿=南条時光のこと。父親を南条七郎といいその七郎の次男であることから七郎次郎という。
○だんな=檀那のこと。梵語ではDana(ダーナ)という。発音に漢字を当てはめるとこのようになる。布施の意。転じて施主・御供養をする人の意。仏法僧の三宝を外護し供養する人のことを檀那というようになった。檀越ともいう。日常的に用いられる「家の檀那さん」という言葉は仏教から生まれたもの。
○大果報=大きい幸せのこと。果は結果。報は報い。過去世における善悪の業が原因となって現れることで、心に受けるものを「果」といい、外形・肉体に現れるものを「報」という。当抄での意はしたがって、精神的にも肉体的にも大きな幸福に恵まれる、との意。

【ポイント】

南条時光が建治二年のお正月の御供養として、お餅やお酒や川海苔や大根などの野菜を大聖人様にお供えした時の御返事の結びの部分です。山中の大聖人様を案ぜられた時光の心遣いが御供養の品々から伝わってまいります。また、幼くして父を亡くした時光は、常に父の来世を心配しそのために追善供養をしていたことも想像できます。そのような子供の心をよくご理解されていた大聖人様は「亡き父上は必ず成仏しております」ということを、仏様の御前におられます、と仰せになり、御本尊様の信心は親子同時の成仏であることを教えて下さっております。
当抄から、毎月一日の永代経は、亡き方々の成仏を願う場であり、また生きている私たちの修行の場であることが知れます。さらに、法華経の道塲であるお寺は、心身に大果報を受けるための修行の道場であることを学ぶことができます。
師走を迎え忙しいことと思いますが、御本尊様を大切に思い、亡き方々のことを忘れずに修行に励む皆さまに大きな果報があることは間違いのないことです。ご精進ご精進。

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