日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年2月12・13日 御報恩御講

佐渡の国法華講衆御返事

佐渡の国法華講衆御返事 (歴代法主全書一巻)

佐渡の国法華講衆御返事 (歴代法主全書一巻)

 御かうしやう(講衆)、じこんいご(自今以後)において、へんぱ(偏頗)ありてしやう(聖)人のほうもん(法門)にぎず(疵)つけ給候な(莫)。なおなおこのほうもん(法門)は、しでし(師弟子)をただ(糾)してほとけ(仏)になり候。しでし(師弟子)だにもちが(違)ひ候へば、おなじ(同)ほくゑ(法華)をたもち(持)まいらせて候へども、無間地獄にお(堕)ち候也。うちこしうちこし(打ち越し打ち越)しぢき(直)の御でし(弟子)と申やから(輩)が、しやう(聖)人の御ときも候しあひだ、ほんでし(本弟子)六人をさだめ(定)おかれて候。そのでし(弟子)のきうけ(教化)のでし(弟子)は、それを、そのでし(弟子)なりとい(言)はせんずるためにて候。あん(案)のごとくしよう(聖)人の御のち(後)も、すゑ(末)のでし(弟子)ども(共)が、たれ(誰)はしよう(聖)人のぢき(直)の御でし(弟子)と申すやから(輩)、おほく候。これら(此等)の人はだいはうぼう(大謗法)にて候也。御かうしうら(講衆等)このむね(旨)をよくよくぞんぢ(存知)せらるべし。恐々謹言

 元亨三年六月二十二日

白 蓮  花 押

さどの國法華かうしうのご返事
 


【現代語訳】

 御講衆よ、今後は偏った信仰をして日蓮大聖人のご法門に疵をつけてはなりません。日蓮大聖人の法門は、師匠と弟子との筋道を立てて佛になることが叶う、という教えです。師と弟子の筋道が違っていたならば、同じ御本尊を持っていても無間地獄に堕ちます。師と弟子の筋道を飛び越えて大聖人に直接つながっている、と言った者が御在世にもおり、師弟の道を乱しました。そこで、日蓮大聖人は本弟子として六老僧を定められ、本弟子と弟子との教化の筋道をご教示になりました。そしてそのことを言葉にされて広く示されたのです。はたして、大聖人がご心配されたように、御遷化の後に「私は大聖人の直接の御弟子です」と名乗る者がたくさん出ました。このようにに「大聖人直結」などという者は大謗法です。御講衆よ、日興の申し上げることをよくよく理解されて師弟の道を踏み外すことなく信仰に励むべきです。



【語句の意味】

御こうしやう=法華講衆。
じこんいご=これ以降。今後。この後。
偏頗=偏(かたよ)った考え、不公平なこと。
しやうにん=聖人。日蓮大聖人様の御事。
しでし(師弟子)をただ(糾)して=師弟相対・師弟不二の信仰をいう。「糾」は、あざなう。糸をよりあわせることをいう。
うちこしうちし=飛び越すこと。
ぢきのでし=直接の弟子。大聖人直結をことさら強調してこのように言う。
ほんでし=本弟子。六老僧(日昭・日朗・日興上人・日向・日頂・日持)のこと。大聖人が御入滅に先だって定められた。
けうけ=教化。教え化導すること。化導は仏に導くの意。
いはせんずる=言は宣ずる。「言は」は心に思うことを言葉に出して表すこと。「宣ずる」は広く告げ知らせること。


総本山五十九世日亨上人は本書を拝されて、
「この開山上人の厳格さが、現今にまで御本山にも残っており、貧富にかかわらず、その所縁の僧俗の証明書を持って信徒たるの待遇をなす、厳として、またうるわしき慣例は、いかに煩雑の時代に変ずるとも、万年の未来までにのこしたきもので、師弟不二の信仰が、少しも衰微せぬことを祈り申すのである」と仰せになっています。


【私たちの立場から師弟子を糾すとは】

 平成の私たちは、総本山六十七世日顕上人を大師匠と仰ぎ、日顕上人の御指南のもとで御書を拝し信行に邁進することにより「成仏の大功徳を受ける」ことができます。したがって、平成の師弟不二は、「日顕上人が師、私たちが弟子」です。

 創価学会のように、代々の御法主上人を「うちこし」て大聖人の「じきのでし」と名乗るのは「大謗法」であることとを日興上人が、『佐渡の国法華講衆御中』を通して御指南されるのです。

 創価学会では今でも三宝の一つである僧宝を「日興上人」としています。その日興上人がこのように御指南下さっているのですから、このことを彼らの耳に入れ、池田大作の誤った信仰観を指摘し、正信に導く一助としようではありませんか。

 寒い毎日が今しばらく続きます。寒さに身ばかりか心まで冷やさぬように。心を温める一番の方法は唱題です。唱題は私たち一人ひとりの心だけではなく、世界中の人たちの心を温める唯一最上の方法です。

 自身と周りのために、寒さ負けないで精進をしましょう。春はもうすぐです。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺