日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年2月1日 永代経

上野殿御返事

上野殿御返事 新編御書一三六一頁
弘安二年四月二〇日 五八歳

上野殿御返事 (御書 一三六一頁)

 涌出品は日蓮がためにはすこしよしみある品なり 其の故は上行菩薩等の末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘むべしと見へたり しかるに先づ日蓮一人出来す 六万恒沙の菩薩よりさだめて忠賞をかほるべしと思へばたのもしき事なり
 とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ 殿一人にかぎるべからず 信心をすすめ給ひて過去の父母等をすくわせ給へ
 日蓮生まれし時よりいまに一日片時もこころやすき事はなし 此の法華経の題目を弘めんと思ふばかりなり
 

【意訳】

 法華経の従地涌出品第十五は、日蓮にとって少なからず因縁のあるものです。その理由は、末法に南無妙法蓮華経を弘める使命がある地涌の菩薩が、大地から涌現することが説かれるからです。そのような訳ですから、まず日蓮が先だってこの末法に出現したのです。ガンジス川の砂の数の六万倍と説かれる地涌の菩薩たちから、必ずこの忠孝を褒めて下さると思えば心強いかぎりです。
 
 どのようなことがありましても、この御本尊様にすべてを任せ、心から信じなさい。あなた一人のご信心であってはなりません。そのわけは、まわりの人たちに信心を勧めることによりはじめて大きな功徳が得られるからです。そして得た功徳は、亡き父母をはじめとしたご先祖を助けることになります。

 日蓮は生まれてから今日まで一日片時も心が安らかになったことはありません。なぜならば、この法華経のお題目をすべての人たちとともに唱えたいという大きな願いがあるからです。大願を成就したときにはじめて心は安らかになります。



【要点】

 お経文には、釈尊が入滅されて二千年を経過した時代を「末法」といい、釈尊の教えの効力が消滅し、末法には末法の仏様がお出ましになり人々を導いて下さる、と説かれております。その仏様が「日蓮大聖人」であられ、教えが「南無妙法蓮華経」なのです。「涌出品〜たのもしきことなり」がその意です。したがって、日蓮大聖人様の仰せは仏様のお言葉であり、御書の一文一句はお経文と全く同じである、と拝するのが日蓮正宗の教義です。 

 その末法の仏様が「とにかくに法華経に身をまかせ信ぜさせ給へ」と仰せです。すべては御本尊様にお任せしなさい、ということですから、「潔い信仰」のことです。あちこちに脇目を振らずに、御本尊様一筋、ということです。「無疑曰信」ともいいます。「仏の仰せを疑わない信仰」です。とはいえ、盲信であってはなりません。そこで法華経を引かれ、「盲信」を戒められるのです。つまり、釈尊は法華経に真実を説かれ、さらにその経文の文の奧底には末法の教えの筋道がハッキリと記されており、そこから導かれた結論として「南無妙法蓮華経の五字」こそ根本の法であること、そして、日蓮がその法を所持しているのだから安心をして日蓮のいうことを信じ精進すべきである、と仰せになるのです。

 さらにまた、「殿一人にかぎるべからず」を見逃してはなりません。それは、末法にあっては折伏こそが仏道修行であり、自己のみの成仏を願う修行には功徳がない、と明示された御文だからです。 

 このように、総本山大石寺を建立寄進した南条時光でさえ、「折伏をしなさい」と大聖人様からのご指導があるのですから、私たちが「折伏をしましょう」と耳にタコができるほどいわれるのはあたりまえですね。日顕上人が「一人が一人の折伏」と仰せ下さらなければ、私たちは懈怠(なまけもの)の信心になってしまうところです。

 次の、「信心をすすめ給ひて」以下で、折伏には自らの成仏ばかりではなく、亡くなった両親や先祖を成仏に導く大きな功徳がある、と仰せになります。これは、生きている人ばかりか亡き人をも救うことができる折伏の功徳の大きさが明かされる御文です。

 さて、「日蓮〜心やすきことなし〜弘めんと思うばかりなり」とのお言葉を拝して、皆さまはどのように感じましたか。御本仏の大きな大きなご慈悲に、ただただ感謝です。

 寒い季節ではありますが、「冬は必ず春となる」(妙一尼御前御消息・八三二頁)とあります。厳しい冬の修行があって春を迎える喜びも大きいのです。コタツに入ってのぬくぬくとした修行には春の喜びはありません。功徳もまたしかり。励みましょう。自行化他のご信心に。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺