日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年3月12・13日 御報恩御講

椎地四郎殿御書

椎地四郎殿御書 (御書一五五五頁)
弘安四年四月二八日  六〇歳

椎地四郎殿御書  (御書一五五五頁)

 末法には法華経の行者必ず出来すべし 但し大難来たりなば強盛の信心弥々悦びをなすべし。火に薪をくわへんにさかんなる事なかるべしや。大海へ衆流入る、されども大海は河の水を返す事ありや。法華大海の行者に諸河の水は大難の如く入れども、かえす事とがむる事なし。諸河の水入る事なくば大海あるべからず。大難なくば法華経の行者にはあらじ。天台の云はく「衆流海に入り薪火を熾んにす」等云云。
 法華経の法門を一文一句なりとも人にかたらんは過去の宿縁ふかしとおぼしめすべし。経に云はく「亦正法を聞かず是くの如き人は度し難し」云云。此の文の意は正法とは法華経なり。此の経をきかざる人は度しがたしと云ふ文なり。法師品には「若是善男子善女人乃至則如来使と説かせ給ひて、僧も俗も尼も女も一句をも人にかたらん人は如来の使ひと見えたり。
 貴辺すでに俗なり、善男子の人なるべし。此の経を一文一句なりとも聴聞して神にそめん人は、生死の大海を渡るべき船なるべし。妙楽大師の云はく「一句も神に染めぬれば咸く彼岸を資く、思惟修習永く舟航に用たり」云云。生死の大海を渡らんことは、妙法蓮華経の船にあらずんばかなふべからず。
 
【現代語訳】

 末法には法華経の行者が必ず出現します。ただし、(末法の法華経の行者には大難が起こります)大難が起こったときには信心がますます強盛になったと喜びの気持ちで進むべきです。例えていえば、火の中に薪を加えたならば火はますます燃えさかるのと同じです。河の水はすべて大海に流れ込みます。しかし、大海は河の水を逆流させることはないでしょう。これは、法華経の行者は大海に例え、流入する水は法難です。法難が起こっても大海が水を押し返すことがないように、法難から逃れようとはしないのが法華経の行者です。多くの河の水が流れ込むゆえに大海があるのです。同じように大難がない法華経の行者はおりません。天台大師は摩訶止觀の中で、「諸々の河の水は海に入り、薪を加えれば火が燃えさかる」と説いております。
 法華経の教えを一言でも他人に話すことのできる人は過去世からの深い縁があると思いさない。法華經の方便品には、「正しい教えを聞かない者は救うことができない」と説かれております。この経文の、正しい教え、とは法華経のことであり、法華経を聞かない人は救われない、という意味です。法師品には、「もし、この善男子、善女人が(私の入滅した後に、ひそかにたとえ一人のためだけであってもこの法華経のことを一言でも話すのであれば、この人は)仏の使である」と説かれております。この意味は、僧侶も信徒も、尼も女性も法華経のことを一言でも周囲の人たちに語る人は、仏の使である、ということです。
 椎地四郎殿、貴男は日蓮のご信徒です。経文に説かれる善男子です。したがって、日蓮が説く南無妙法蓮華経の教えを一言でも聞き心に染めておられます。ゆえに、生死の大海を渡ることのできる船に乗っております。妙楽大師は法華文句記で、「だれもが、一句でも心に染めるならばことごとく悟りの境界に達する助けとなる。さらにそのことを思い考え修行に励むならば、生死の大海を渡ることのできる船になるであろう」と説かれております。これらのことから、生死の大海を渡るのは妙法蓮華経の船でなくてはならないのです。


【語句の解説】

○【火に薪】法華経の行者を火に、法難を薪に例えます。法難という薪が多ければ火はより火力を増します。火を成仏と考えるとさらにわかりやすくなります。つまり、法難が多ければ多いほど成仏の道もより開かれる、となります。


○【衆流海に入り】天台の摩訶止觀第五の卷に説かれるもので、「衆流」を法難、「大海」を法華経の行者に譬えています。大海が流れ込む河の水を押し返すことがないように、御本尊様の信仰をしている私たちも、法難が襲ってこようとも、怯むことなく、退することなく堂々と立ち向かって行きなさい、と大海の譬をもって教えて下さるのです。法華経の行者は「大海」です。


○【法華経の一文一句を語る】ときに、心がけることとして法師品では「衣・座・室の三軌」が説かれています。

@如来の衣=柔和忍辱の衣を着ることで、私たちの上にあてはめると、優しく親切で穏やかな心をもち、周囲からの辱めに堪えて御本尊様のことを語って行くことです。

A如来の座=一切法空との境地に住すること。『御義口伝』では、「座とは不惜身命の修行なれば空座に居するなり」とあります。「不惜身命」とは、命を仏様に捧げます、という決心です。これは、最も大切にする命さえ執着する対象ではない、という意です。つまり、私たちが、すべての執着から離れて御本尊様のことを語ることをいいます。空座は御本尊様のお使いとして、という思いにたつことにより自己の中にある執着から離れることです。結果として、それが自己の解放につながります。

B如来の室=如来(仏)の慈悲のこと。仏は衆生の大悲をもって苦しみを抜き、大慈をもって楽しみを与えることです。末法にあって、御本尊様のことを語ると、多くの困難や種々の障害が出てまいります。その時の心構えとして、どのような辱めにも堪え、優しく穏やかな心で、自己犠牲に陥ることのないように、「御本尊様のお使い」との使命感をもつこと。また、対象に対する執着から離れた仏の慈悲を実践することです。


○仏の慈悲とキリストの愛(アガペー)の違い。

 キリスト教では愛を、「神の愛」として、神が罪人たる人間に対して自己を犠牲にする哀れみの行為(広辞苑)と説きます。キリスト教では、尽くしても尽くしても報われることのない終わりなき自己犠牲を人々に強いているといえます。神はそれでも良いかも知れません。然し人々は如何でしょう。出口のないトンネルを進んでいるようなものではありませんか。そこで、神との契約を持ち出して、忍従を説きます。忍従は諦めにつながります。また、自己犠牲は自己満足になり、やがて自己満足が自己中心主義に変わるのです。明治以降、西洋思想の受容は仏教(東洋)思想を排除し、その結果民衆の思想は一段低いものになったようです。
 これに対し、仏教では、「空」を説き自己犠牲は否定されます。仏の慈悲は一切の執着を離れた自己犠牲のないものです。そもそも仏教では「愛着」や「愛憎」という自己を中心とした考えは、汚れたものとして否定します。
 大聖人様は「如来の座」について、「不惜身命」と仰せです。これは御本尊様のお使いをする、という使命感に立つことであり、使命感に立つことは、御本尊様が心に入ることです。これが成仏の功徳です。このことが「不惜身命」であり、如来の座に住することなのです。この空に住することで、自己犠牲から解放されるのです。方便品には、「我本誓願を立てて一切の衆をして 我が如く等しくして異ること無からしめんと欲しき 我が昔の所願の如き 今者已に満足しぬ 一切衆生を化して 皆仏道に入らしむ」とあります。

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺