日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年5月7・8日 御報恩御講

六難九易抄

六難九易抄 (御書一二四三頁)
弘安元年七月三日 五七歳

 当抄の題号は『六難九易抄』と付けられております。題号の由來となった「六難九易」とは、六種類の難しいことと九種類の易しいことです。法華経の見宝塔品第十一に説かれます。仏が入滅した後に、法華経を受け法華経を持つことの難しさを、六難と九易とを比べることで明らかにするものです。九易といっても私たちには想像を絶することがらですが、末法に南無妙法蓮華経と唱え御本尊様を受持することに比べれば、なお易しいことである、と説かれています。

 『開目抄』には

「宝塔品の六難九易これなり。我等程の小力の者、須弥山はなぐとも、我等程の無通の者、乾草を負ふて劫火にはやけずとも、我等程の無智の者、恒沙の経々をばよみをぼうとも、法華経は一句一偈も末代に持ちがたしと、とかるゝはこれなるべし。今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ」(五三九頁)

とあります。この御文の前段で大聖人様は、「一国謗法のゆえに、国中が悪道に堕ちていることを日蓮ただ一人が知っている。そのことをいうならば父母や兄弟や師匠に王難(国家の迫害)がある。このことを恐れていわなければ慈悲がないことになる。どうしようと考え法華経と涅槃経をみると、いわなければ今生ではなにごとも起こらないが、来世には無間地獄に堕ちることが定まっている、と説かれている。また、そのことをいったならば、三障四魔(三障は、煩悩障・業障・報障。四魔は、煩悩魔・陰魔〈生きていること自体に苦しみがあり、そのことが魔となる〉・死魔・天子魔)が起こる、と説かれている。しかし、いうべきである。とはいえ、王難が起こったときには、退転する恐れもがあるので、最初からいうのをやめた方がよいのでは、と躊躇する弱い心があった。ところが、宝塔品の六難九易の文を見て、法華経の教えを末代に説くことが難しいことを知り、更によく考えれば、このたびの佐渡流罪は、法華経に説かれたことを現身に体験している。そこで、今度こそは強い確信を持って退転しないように、との誓いを立てるのである」と六難九易についての仰せがあります。これは、大聖人様が、ご自身の苦難を通して、「法華経に説かれたようなことが起こる」ことを私たちに教えて下さり、それが、「法華経を身読する」ことであり、そこに過去世からの罪障消滅が叶い、即身成仏の大功徳がある、とご自身の身の上にあててご教示されるのです。法難に遭うことは法華経を身体で読んだ証明です。

 そこで、当抄の冒頭での仰せである法華経についての質問は「六難九易」の法華経を持っている証拠であるから、貴女の即身成仏は間違いがありません、とご信心を励まして下さるのです。

 つぎに、南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏に成ることが叶うか、という質問に対して、法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経でありお題目を唱えることは法華経一部を真読することになる、と仰せになり、このことは日蓮がいうのではなく天台大師がそのように教えている、と述べら、お題目の功徳の大きさを御指南下さるのです。

 そして、ただいま拝読のところになります。

【一】 かゝる持ちやすく行じやすき法にて候を、末代悪世の一切衆生のために説きをかせ給ひて候

とここでおおせになります。意は、「このように、持ちやすく修行しやすい教えを、仏は末代悪世に生きなければならない一切の衆生のために説きおかれたのである」となります。

「このように、持ちやすく修行しやすい」とは、法華経一部を全部読むことなく、苦しい難行苦行をすることなく、だだ御本尊様に向かってお題目を唱えるだけで、という意です。日蓮の修行は、お題目を唱えることにより成仏が叶う持ちやすく行じやすい教えである、と示されるのです。ここが大事なところですね。折伏に行きますと、日蓮正宗の教えは難しい、勤行が大変で私にはできない、と必ずいい尻込をする人が多くいます。これについて、『開目抄』を拝しますと、

「法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者、法華経をつよくほめあげ、機をあながちに下し、理深解微と立て」(五三八頁)

とあります。淨土教の法然などが、法華経の教えは深く崇高であるから、末法の機根の低い者には理解ができない、といって、簡単と思われる念仏に引き入れようとします。当抄を与えられ「妙法尼」の周辺にも、念仏の者がいたのでしょう。ですから、念仏を破折する意味も込められています。

 最近の創価学会も念仏を師匠としたのでしょうか。お経は必要ない、題目だけでよい、と指導をしました。その理由として、海外の会員たちの要望、をあげます。海外の会員がお経を覚えるのが難しいから、世界に適応した方法を採用したといいます。これは、謗法の罪や責任を海外の会員に押しつけた、池田流の非常に狡いやり方です。また海外会員は、経文を覚えることのできない劣る者、と位置づけたことになります。そして、法然や親鸞と同じやり方です。まさに現代の「一凶」です。 

 私たちは、ただお題目を唱えるだけでよい、との仰せを深く信じ、御本尊様を護り「南無妙法蓮華経」と唱え、成仏を期することが肝要なのです。ただし、

「力あらば一文一句なりとも語らせ給うべし」を疎かにしてはないません。おいしいケーキを一人だけで食べるのではなく、皆で分け合って食べるのが本当のおいしさです。何故ならば、分け合うことにより、舌ばかりではなく、心もおいしい、と感じることができます。ですから、折伏は大事です。

 そして次の経文を引用されます。

【二】 経文に云はく「於末法中」「於後末世、法欲滅時、受持読誦」「悪世末法時、能時是経者」「後五百歳中、広宣流布」と。此等の文の心は当時末法の代には法華経を持ち信ずべきよしを説かれて候

と。これらの経文は、いずれも末法に法華経が流布し、法華経のみが衆生を導く力のあることを説かれております。

 【安楽行品十四には、「如来の滅後に、末法の中において」等。あるいは、「後の末世の、法滅せんと欲せん時において、この経典を受持し、読誦せん者」等。あるいは分別功徳品十七に、「悪世末法の時、よくこの経を持たん者」等。あるいは薬王菩薩本事品二十三には、「我が滅度の後、後の五百歳の中に閻浮提において広宣流布して断絶して、悪魔・魔民・諸天・竜・夜叉・鳩槃荼等にその便りを得せしむこと無かれ」等と説かれています。これらの経文のように、末法には、法華経を持ち信じ成仏することが説かれているのです】

 ここで法華経の経文を引用されますが、それは、法華経のみが末法に生きている人々を成仏に導く教えであり、その法華経が末法に広く流布することが、大聖人様の言葉ではなく経文にあることを教える意味があります。このように、大聖人様は常に経文を引かれ、天台や妙楽の教えを引用して法を説かれます。このような姿勢は、邪教の宗派の祖師といわれる者たちにはありません。だから邪教(邪な教え)というのです。一例を挙げると、親鸞は歎異鈔の中で、「たとえ法然にだまされて、念仏を申して地獄に落ちるようなことがあっても後悔はしない」といっております。この言葉から、親鸞の信仰がわかります。結局彼らは経文も修行も不要なのです。無責任な言葉です。親鸞を宗祖と仰ぎ、浄土を願って念仏の題目を唱えている人たちはこのことをどのように考えているのでしょうか。たまったものではありませんね。いい加減な信仰を蔓延させた罪は深いといわねばなりません。これが「盲信」です。

 今日の創価学会も同じです。日蓮正宗で血脈の中にあって、御書を正しく拝読していた頃の話と、破門され血脈が通わなくなってからの話は正反対であることを指摘され、言葉に詰まったあげく、「池田先生を信じているから、地獄に堕ちてもかまわない」との捨てぜりふを吐き平然としております。そのくせ、目は虚ろで、不安を隠しきれないのです。哀れこの上ない、と彼らの姿を見て感じます。そして、我が身の幸福を感じます。先月の御講で学んだ御文「只正理をもって前とすべし」を思い出した方も多いでしょう。

 では、どうして念仏宗や創価学会のようになったか、それを教えて下さるのが次の御文です。

【三】 かゝる明文を学しあやまりて、日本・漢土・天竺の謗法の学匠達、皆念仏者・真言・禅・律の小乗権教には随ひ行じて法華経を捨てはて候ひぬ。仏法にまどへるをばしろしめされず。形まことしげなれば、云ふ事も疑ひあらじと計り御信用候間、をもはざるに法華経の敵、釈迦仏の怨とならせ給ひて、今生には祈る諸願も虚しく、命もみじかく、後生には無間大城をすみかとすべしと正しく経文に見えて候

 現代語の訳しますと、「法華経こそが末法の要法であるとの明らかな文があるにもかかわらず、誤って学んだことにより、日本や中国、またインドの学匠といわれる者たちは、皆、念仏者や真言宗や禅宗や律宗等の小乗の教や権教の教えに随い修行をしました。その結果、ついに法華経を捨ててしまったのです。このように学匠たちが、仏法に惑っていることを知らない人々は、姿形が立派で尊く見えることから、いうことにも誤りはないと思い信用しているのです。そして、法華経を敵としているつもりはないけれども、いつの間にか法華経や釈尊の怨敵となってしまったのです。そのせいで、今生には祈りも叶わず、命も短くなり、来世には無間地獄に堕ちて苦しみを受けなくてはならない身になる、と経文に明らかです」となります。

 経文にはハッキリと説かれているのに、そのまま素直に読むことができないのは何故なんでしょうね。縁がないのでしょうか。『本因妙抄』には

「但自見の僻目を本として予が立義を破失し三悪道に堕つべし大謗法の罪人なり」 (一六八三頁)

とあります。この、「自見」とは、浅はかな自らの考えのことで、自己流のことです。師を持たずに一人で悟ったような顔をしている者に対する忠告です。この御文の意は、「自己流の誤った考えを本にし、経文を本にして立てる日蓮の教えを守らないものは地獄・餓鬼・畜生の悪道に堕ちる大謗法の罪人になるのです」と。これは、『一代聖教大意』で

「此の経は相伝に有らざれば知り難し」(九二頁)

と示される御指南と同じであり、「自見」を戒める上からも、私たちが忘れてはならない大切なお言葉です。
 そもそも、中身がないものですから、「形まことしげなれば」にする必要があるのです。「真し」とはで本物である、正統である、ということです。そこに、接尾語の「げ」がつくと、本当らしく見える、外見上は、となります。ですから外見を飾るんです。仏教史の上で外見を飾って人々を惑わそうとした最初はあの提婆達多です。『法蓮抄』には

「提婆には三十相あり。二相かけたり。所謂白毫と千輻輪となり。仏に二相劣りたりしかば弟子等軽く思ひぬべしとて、蛍火をあつめて眉間につけて白毫と云ひ、千輻輪には鍛冶に菊形をつくらせて足に付けて行くほどに足焼けて大事になり」(八一三頁)

とあります。三十もの相が備わっているのですからすごいことだと思いますが、提婆達多は満足できなかったのですね。残りの二つ、眉間白豪相の代わりに蛍を付ける、千輻輪とは足の裏に千の輻輪からなる模様がついていることです。火傷をして大変なことになったとおおせです。勲章をぶら下げて、あるいは名誉称号をいっぱい買い集める誰かさんは、提婆達多を師匠としているのでしょう。

 さらに大切な御指南があります。それは「をもはざるに法華経の敵、釈迦仏の怨とならせ給ひて」というところです。これは『最蓮房御返事』の

「いかに我が身は正直にして、世間出世の賢人の名をとらんと存ずれども、悪人に親近すれば、自然に十度に二度三度其の教へに随ひ以て行くほどに、終に悪人になるなり」(五八六頁)

との御指南と同じですね。凡夫がいつの間にか謗法になっている怖さを教えて下さいます。これもよく経験することです。学会員を折伏すると、「私はあまり会合には出ないし、御本尊は変えていないから大丈夫」といいます。ですが、この御文から、籍があるだけで謗法になることがよくわかります。一刻も早く籍を抜いて、正しい日蓮正宗富士大石寺の信仰に立ち返ることを教えることが私たちの修行です。

 また、「今生には祈る諸願も虚しく、命もみじかく、後生には無間大城をすみかとすべし」との戒めをよくよく拝さなくてはなりません。反対に、この御文から、私たちは正しく御本尊様を拝み修行に励んでおります。ですから、今生の祈りは叶い、元気で長生きができ、来世には仏様のもとに生まれると日蓮大聖人様が保証して下さる功徳を受けることができます。

 自身の成仏のため、周りの人たちの成仏のために修行に励み、功徳をいっぱい頂戴しようではありませんか。日蓮大聖人様は必ず私たちの願いを聞き届けて下さいます。そのためにも折伏です。千所帯が目前です。ご精進ご精進

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