日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年6月11・12日 御報恩御講

十八円満抄

十八円満抄 (御書一五一九頁)
弘安三年一一月三日 五九歳

十八円満抄 (御書一五一九頁)

総じて予が弟子等は我が如く正理を修行し給へ 智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべ き 所詮 時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし


【意訳】

日蓮の弟子であるならば、日蓮と同じように正しい教えを根本にして修行に励むべきです。正しい教えによらない修行では、たとえ世間から智慧のある者とか、学問を成就したと讃えられる身になっても、地獄に堕ちます。せっかくの修行が台なしになります。そのようにならないためには、いついかなる時にも、心の奥底から「南無妙法蓮華経」と法華経の題目を唱え、精進をすることが大切です。  



【語句の意味】

正理=正しい教え
智者=智慧のある者。智慧のすぐれた人
学匠=学門を究め、教えを説く立場に立った者のこと
時々念々=時々は時間的側面。念々は精神的側面。ゆえに、いかなる時にも、心の奥底から、「南無妙法蓮華経」と唱えること



○この御書を頂いた【最蓮房】は佐渡島で入信。

 当抄は弘安三年十一月三日、日蓮大聖人様が五十九歳の御時に身延山で認められ、お弟子の最蓮房に与えられたものです。

 最蓮房は京都の出身で天台宗の僧侶でした。どのような理由であったかは不明ですが佐渡に流罪になりました。そこで大聖人より折伏を受けて弟子になりました。入信の時の模様を、『最蓮房御返事』で、
@「何となくとも貴辺に去ぬる二月の比より大事の法門を教へ奉りぬ。結句は卯月八日夜半寅の時に妙法の本円戒を以て受職灌頂(じゅしょくかんじょう)せしめ奉る者なり」 (御書・五八七頁)
と述べられております。「妙法の本円戒」とは法華経本門の戒のことです。「授職潅頂」は、仏弟子として修行に励んだ菩薩が、修行の結果仏から秘法を伝授され阿闍梨となるときに受ける儀式で、阿闍梨は弟子をとり教えを説くことのできる資格を得た僧侶をいいます。その時、仏が阿闍梨となる弟子に、智慧の水をそそぎかけることから、このようにいわれます。ここでは、最蓮房が大聖人から御授戒(ごじゅかい)を受けたことを、古来からの仏法の例にならってこのように仰せられたと拝します。


○《御授戒の儀式》

 私たちの入信の儀式として御授戒があります。その時に頭にお乗せするのは御本尊様です。御本尊様を頭に乗せて頂くことで、大聖人様の御法門の一切を注ぎ込んで頂いたことを表すのです。日蓮大聖人様が示して下さる、永遠に壊れることのない戒を持ち、仏の弟子として今世を生き、心豊かな人生を、と決意する儀式が御授戒です。ここでは、ア.御授戒を大聖人様がされていたこと、イ.御授戒には大切な意義があること。この二点を特に心にとどめておかなくてはなりません。

 この御文から、最蓮房は二ヶ月前から大聖人に折伏を受けていたことがわかります。そして四月八日の夜半、現在の時間で言えば、午前三時から五時にかけて御授戒を受けました。四月八日は釈尊の生まれた日ですから、その日の寅の刻を選んだのでしょう。

 最蓮房は、『生死一大事血脈抄』・『草木成仏口決』・『諸法実相抄』・『当体義抄』・『立正観抄』などの御法門の上で大切な御書をたくさん頂いております。それだけに学問にも秀でたものがあったのです。その最蓮房に対して、仏法を学ぶ上での大切な心構えとして、根本を誤ってはならないと御指南下さったものです。


○《正理を第一とすること》 

 大聖人は最蓮房を通して私たちに、「智者学匠の身となっても地獄に堕ちてしまったのではなんにもならない」と指導されます。何故智者になってはいけないのでしょうか。智者とは字のごとく、物事をよく知る者、智慧のある者のことです。また、学匠は学問を修め師匠の立場に立つ者のことです。修学に励み、人々に法を説く身となり、周囲から誉められるようになりたい、思ってはいけないのでしょうか。

 大聖人がこのように仰せになられるのは、慢心を戒める上からのお言葉である、ということです。周囲から、あの人は偉い、よくやっている、などと誉められたりすると、それまで気にならなかったことが気になり出したり、張り合う気持ちが強くなります。せっかくコツコツと進んできたのに、チョット誉められるといい気になってしまい、思わぬ方向に行くのが私たち凡夫の姿です。 

 皆さんにも多かれ少なかれこのような経験があることでしょう。そこで大聖人は、誉められるようなことがあっても、うぬぼれたりしてはなりませんぞ、誉められたりおだてられたりすることは、慢心に通じ、やがて私は尊いのである、という思いに支配され、地獄の苦しみに堕ちてしまうことになる。そうであったなら成仏どころか、地獄のに堕ちることになる、と注意をして下さるのです。


○《誉められ方》

 では、せっかく一所懸命に努力をしても、だれからも誉められないのはつまらない、と思うのもまた凡夫の心です。当然です。人は誉めて育てろ、というような言葉もあります。そこで大聖人の御指南を拝してみますと、
「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(御書・五七七頁)
という有名なお言葉があります。このお言葉は『開目抄』の中で仰せです。はじめて聞いた方、御書を実際に開いて拝して下さい。

 さて、その意味ですが、「愚かな者に誉められることは恥ずべきことである」ということです。大聖人は誉められて悦ぶべきである、とは仰せになりません。誉めた相手をよく見なければならない、相手が賢者であれば素直に喜ぶべきである、しかし愚かしい者から誉められたなら恥じ入るべきである、といわれるのです。

 では、この賢者と愚者・愚人の違いはどこにあるのでしょうか。両者を私たちの信仰の上から考えるならば、愚人は「謗法の者」。賢者は「正法の者」。明らかです。善い悪いの判断基準は全てここからです。繰り返しますが、富士大石寺の大御本尊様を信じて南無妙法蓮華経と唱える者は賢者・賢人であり、富士大石寺の大御本尊様を謗り、信じない者は愚者・愚人です。したがって、愚人から誉められることはきちんとした折伏ができていない証拠ともいえます。自戒しなくてはなりません。

 ですから、「我が如く正理を修行し給へ」とのをお言葉を軽々しく拝してはなりません。修学の根本を本門戒壇の大御本尊様におくことが成仏の絶対条件です。その修行において【智者・学匠】となり、誉められることは素晴らしいことであり、自信と誇りを持つべきことです。最高の賢者であられる日蓮大聖人様にお誉めいただくことが私たちの信仰の目的だからです。お誉めいただけるように精進することが成仏の上からは重要なのです。


○《正理を修行する方法》

 それでは、正理を修行する方法とはどのようなものでしょうか。最蓮房は大聖人より直々に御指南を賜り正理を修行することができました。大聖人滅後の現在の私たちは、御書を拝することによって大聖人から御指南を賜ることができます。「御書を心肝に染め、極理を師伝して」と日興上人が御指南です。心肝とは心の奥深く、心底、という意味です。極理を師伝することは、御書の中に示される究極の理論は師匠から伝えられものである、とのお言葉です。ですから、時の御法主上人の御指南を拝して御書に向かう姿勢が、大聖人様の仰せになる師弟相対の信心なのです。


○《師弟の因縁》

A「過去無量劫より已来師弟の契約有りしか。我等末法濁世に於て生を南閻浮提大日本国にうけ、忝くも諸仏出世の本懐たる南無妙法蓮華経を口に唱へ心に信じ身に持ち手に翫ぶ事、是偏に過去の宿習なるか」 (『最蓮房御返事』 五八五頁)
とあります。これは、師弟の関係をわかりやすく説明して下さるものです。意訳いたしますと、「私たちは遠い過去から師匠と弟子との関係だったのです。私は師匠の立場として、あなたに南無妙法蓮華経を教え、あなたは弟子の立場からこの末法という濁った世の中で、南閻浮提にある日本国に生を受け、もったいなくも、全ての仏の成仏の因である南無妙法蓮華経の題目を、口で唱え、心の奥底からから信じ、手を合わせて修行に励んでおります。このように師弟となって南無妙法蓮華経と信仰に励むことは過去世からの深い深い縁でしょうか」となります。

 ところで、信仰の契約といえば、思い出すのがキリスト教で説く神との契約です。彼らは、モーゼとイスラエルの民との契約を旧約といい、キリストを通して全人類と結んだ契約を新約と名付けております。キリスト教徒を折伏したときに、仏教が勝れているのは理解するが、この契約があるから改宗はできない、神との約束を破ることはできない、とかたくなに入信を拒否します。それほどに、無知な民衆を縛っているのです。しかし、キリスト教での契約は、あくまでも神が中心でありその上で人々に契約を結ばせたものです。自主性はありません。ですから、差別があろうが矛盾したものであろが異議を申し立てることはできません。

 一方、大聖人様はこの師弟の契約について、『上野殿御返事』で
B「爰に日蓮思ふやう、提婆品を案ずるに提婆は釈迦如来の昔の師なり。昔の師は今の弟子なり。今の弟子はむかしの師なり」(御書一三六〇頁)
と述べられ、師弟の関係は過去からの契約であると仰せになりますが、その前提として、過去世では師匠であったが現世では弟子となり、来世にはまた反対になる、という経文に説かれた因縁を示して下さっております。したがって、大聖人の仰せになる契約は、あくまでも師と弟子の両者が納得の上であり、キリスト教のように神からの一方的なものではない、との意味なのです。ゆえに、仏法で説く師弟の契約は、私たちが仏様に誓った随順の言葉である、といえます。

 このように、大聖人が師弟の因縁を述べられ、日興上人が、大聖人への師弟相対の信仰が大切である、と教えて下さる意味を私たち法華講衆は深く拝さなくてはなりません。

 正しい師匠に付きしたがって行くならば、法華経の智者・学匠になることができるのです。それは成仏の道を歩むことです。反対に誤った師に付いたならば、智者といわれても、学匠といわれても地獄の生活になるのです。私たちの師匠は日蓮大聖人以外にはおられません。大聖人から唯授一人の血脈を所持される御法主日顕上人が現在の師匠です。御法主上人の御指南を拝して御書を学ぶことが、正しい智者学匠になる唯一の道です。そして、
 「時々念々に南無妙法蓮華経と唱ふべし」
との仰せを忘れることなく、常に唱題を重ねることが肝要です。


○《結び・戒を破り地獄に堕ちる学会員を救う修行》

 御授戒の時に誓ったことを忘れ、誤った師弟観に立ち、正理を学ぶことができなくなった例が池田大作創価学会です。金力にものをいわせて、世界中から勲章や名誉称号を集めて、それを誇っております。そのような池田大作の姿こそ、大聖人が当抄で指摘される、「智者・学匠の身と為りても地獄に墜ちて何の詮か有るべき」そのものです。彼の哀れな姿を見て、慈悲の心を持って折伏をしようではありませんか。彼らと同じようにならないためにも、我が身を省みつつ、成仏の信心に励みましょう。

 梅雨の季節になりました。この時期の雨により大地が潤い、暑い夏にも水不足を回避できると思えば、雨もまた良しです。雨に濡れながらの参詣は、好天の参詣よりもなお功徳が多い、と教えるのが日蓮正宗です。益々のご精進をお祈りします。

C「我等は流人なれども身心共にうれしく候なり」 大聖人と最蓮房の師弟の境界です。

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