日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年7月9・10日 御報恩御講

如説修行抄

如説修行抄 (御書六七三頁)
文永一〇年五月 五二歳

如説修行抄 (御書六七三頁)

法華経独り成仏の法なりと音も惜しまずよばはり給ひて、諸宗の人法共に折伏して御覧ぜよ。三類の強敵来たらん事は疑ひなし


【現代語訳】

法華経がただ一つの成仏の教えである、と声に出して休みなく言い続け、諸宗の者たちや信じている教えを折伏してみなさい。そうすると俗衆増上慢・道門増上慢・僣聖増上慢の三種類の手強い敵が必ず現れます。


【語句の意味】

○音を惜しまず
法華経の宝塔品に「大音声を以て、普く四衆に告げたまわく」とあります。この経文からの引用です。大きな声ですべての人々に法華経を説くべきである、という意。「音も惜しまず」とは継続した折伏、また折伏に我が身を惜しんではならない、と拝すべきです。

○諸宗の人法
諸々の宗派の開祖とその教えのこと。淨土宗であれば、人は法然。法は「選擇本願念仏集」などで説かれる捨閉閣抛の邪義。真言宗であれば、人は弘法。法は法華経は戲論などとたて大日如来を中心とする邪義。創価学会であれば、人は池田大作。法は、池田大作が日蓮正宗の御本尊様をまねて作った「ニセ本尊」。


一、如説修行抄ご述作の背景

 当抄は、文永十(一二七三)年五月、日蓮大聖人様が佐渡一谷(いちのさわ)において認(したた)められ門下一同に与えられた御文です。題号の『如説修行抄』は内容から後の人が付したものです。また「隨身不離抄(ずいしんふりしょう)」とも呼ばれています。


【題号に込められた意義】

 『如説修行抄』の「如説」は、説かれたそのままに、説かれたように、の意です。また、「修行」の「修」には、性質や品行のかどだった点を取りさり、すらりとしたひとがらにする・欠けた点を補い繕ってすらりとした形にまとめる(漢字源)、という意味があります。「行」には、動いて事をする。動かす。やらせる(同)等の意味があります。つまり修行は、性質や品行に欠けたところがなく、まっすぐで円満な人格を形成することを目標として行動をする、ということです。

 如説修行について、日寛上人は文段で、

「日本国の諸人、誰か経文の如く行ずるや。日蓮は経文の如く修行する故に如説修行の人なり」

と述べられています。したがって「如説修行」は、大聖人様のお立場から拝すれば、法華経に説かれるように、となります。しかし、これは末法の御本仏であられる大聖人様が、仏法の筋道の上から述べられる謙譲のお言葉として拝することが大切です。私たち日蓮大聖人様の弟子檀那の一分に連なる立場からは、日蓮大聖人様が説かれたように、大聖人様が教えて下さるように実践することが如説修行であり、なによりも重要なことです。

 大聖人様の説かれた如く、ですから、御一代の御書すべてがあてはまるのは当然ですが、ことに、当抄の前年の二月に顕され、末法の御本仏が日蓮大聖人様であることを明かされた『開目抄』と、当抄執筆の直前の四月に、末法に御出現される御本尊様のことを御指南された『観心本尊抄』に引き続いて当抄が門下に与えられたことを思うと、『開目抄』・「本尊抄」が大聖人様の最も大切な「説」であり、両抄を心に刻んで「如説修行」をすることが、私たち富士大石寺の法華講衆の信心修行です。

 幕府は日蓮大聖人様を佐渡に配流するばかりが、弟子をとらえて土牢に入れたり、信徒にも迫害を加えたりしておりました。門下の動揺も少なからず、中には残念ながら退転するものも出ておりました。不安な気持ちで日々を過ごす門下に、日蓮の教えのままに修行に励むならば、円満で欠けることのない人格を形成することが叶う、と教えて下さり、退転することなく一生成仏の信仰を貫くことをご教示になります。

 私たちも生きている間には多くの苦難が押し寄せてまいります。そのような時には、御在世の人々が当抄を心で拝し、信心を励まして苦難を脱したように、私たちも大聖人様の仰せのままに精進をすることにより、ピンチをチャンスに変えゆくことができます。

 ともあれ、当抄は大聖人様が、私たち末弟のことを心に懸けて遺して下さった御文ですから、心して拝読しようではありませんか。


二、如説修行抄のあらすじ

 はじめに、末法で正しい教えを信じ行ずることが難しい理由を述べられ、そのような中で、法華経の行者である日蓮大聖人様の弟子檀那となるのであるから、三種類の手強い敵が現れて妨害をすることは明らかである、と御指南されます。また、このこととは日頃から教えていたことではあるが、いざその時になってみると凡夫は忘れてしまい退転する、と指摘され、末法で正しい信仰を貫くことがいかに難しいことであるかを教えて下さいます。

 ついで、正しい修行をしている者は現世においては安穏であるはずなのに、どうして三類の強敵が襲ってるのか、との問いを設け、その理由と現世の安穏についてご教示です。

 つぎに、諸宗の誤りを指摘され真実の如説修行のあり方を示される中で、大聖人ご自身のお振る舞いを通して御指南を下さり、真実の教えが国中に広まったときの功徳の現証を

「天下万民諸乗一仏乗と成りて妙法独りはむ昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれをくだかず、代はぎのうの世となりて、今生には不祥の災難を払ひて長生の術を得、人法共に不老不死の理顕はれん時を各々御らんぜよ、現世安穏の証文疑ひ有るべからざる者なり」

と書き記されています。

 続いて、修行には「摂受」と「折伏」の両面があり、このことを知ることが大切であり、末法では折伏が成仏のための修行であり、折伏を行じていくところには、必ず三類の強敵が現れることをお示しになります。

 最後に、日蓮大聖人並びに弟子檀那が末法の如説修行の者であると仰せになり、どのようなことがあっても退転することなく南無妙法蓮華経とお題目を唱えながら臨終を迎えたならば諸仏(大聖人様)が迎えにきて下さることを述べられて当抄を結ばます。


三、拝読した御文について

 本日拝読の御文は、摂受と折伏の違いを述べられた後に、末法には折伏が第一でありその折伏には大きな難が起こることを示されたところです。 

 摂受とは、相手に誤りがあってもそのことを直ちに指摘をすることなく、受け入れながら導く方法です。もう一つの折伏は、相手の誤りをただちに指摘して誤った心を折り、正しい教えに伏させることをいいます。

 大聖人様は、

「法華経の御敵を責めずして山林に閉ぢ篭りて摂受の修行をせんは、豈法華経修行の時を失ふべき物怪(もつけ)にあらずや」

と仰せになります。意は、法華経を信じないものを折伏しないで、人里離れた山の中に篭もり摂受の修行をする者は、不幸な者である、ということです。

 この御指南は、末法の私たちが幸福になるためには、どのような信心をすればよいかを考える上で非常に大切な御指南です。つまり、唱題をいていても、私には折伏をする力がない、と思いこんでいるのは「山の中で一人お題目を唱えている」状況であり、それでは成仏の功徳を得られません。その状態を物怪というのです。物怪とは、怪しいこと・不幸なことをいいます。良薬があるにもかかわらず飲むことができないのは不幸なことです。薬がないのも不幸ですが、飲もうとしないのはもっと不幸ではありませんか。

 その不幸の生活から抜け出すために如説修行の信心をするのです。薬を飲もうとしないから、いつまでたっても生活が改善されないのは当然です。ただし、そのためには覚悟が必要です。覚悟とは、どのようなことがあっても大聖人様の仰せのままに修行に励むことです。その覚悟を試すものが「三類の強敵」です。三類の強敵は法華経の勧持品第十三に説かれます。末法に法華経を弘める者のところに押し寄せてくる三種類の妨害者のことです。

一、俗衆増上慢(ぞくしゆうぞうじようまん)は、法華経の正しい信仰する者に向かって、悪口をいったり暴力を加えたりする仏法に無知な信仰者のことをいいます。

二、道門増上慢(どうもん)は、邪悪な心を持ち法のためよりも自己を大切に正法の信仰を妨げる出家者のことです。

三、僣聖増上慢(せんしよう)は、多くの人々から尊敬され、表面上は尊い姿をしているが、内面には正法を憎む心を持ち、権力を利用して正法を信仰する者に対して危害を加える者のことです。

 この三種類の手強い敵が大聖人様の仰せの通りに折伏の修行に励む私たち法華講衆に対して、ある時は在家の姿で忍び寄り、ある時は権力にその身を変えて襲ってくるのです。


四、如説修行とは折伏なり
 
 そこで、三類の強敵によって信心の浅深を知ることができます。日蓮大聖人様の弟子檀那である資格は、三類の強敵が現れるかそうでないかで決まるといっても過言ではありません。三類の中の一つでも現れたならば、それは日蓮大聖人様の弟子檀那の資格を得たことですから、喜ぶべきことです。これが折伏の基準になります。とはいっても、難を受けるのは辛いものです。そのようなときに次の御文を思い浮かべようではありませんか。

縦ひ頚をばのこぎりにて引き切り、どうをばひしほこを以てつゝき、足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんきはゝ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にゝしぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契りの約束なれば、須臾の程に飛び来たりて手を取りてかたに引き懸けて霊山へはしり給はゞ、二聖・二天・十羅刹女・受持者をうごの諸天善神は、天蓋を指し幡を上げて我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給ふべきなり。あらうれしや、あらうれしや

 すなわち、たとえ首を鋸(のこぎり)で切りとられても、胴体を鋭い鉾(ほこ)で突かれても、また足には太い釘を打たれてさらに錐(きり)で穴を開けられるようなことがあっても、意識のある間は南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と題目を唱へ続けなさい。そうするならば、必ず御本尊様がお護り下さり、御本尊様のお住まいのところに送り届けてくださる、との御指南です。平成の世に、折伏をしたから、といって首を鋸で切られることはないでしょう。それだけ恵まれた時代に信心ができるのですから有り難いと思う素直な心が大切です。

 そのうえで、この御指南を心から拝して、安易な信仰に流されることのないように、我が身の信心を反省するならば、自己中心になっている狭い料簡の生活を改革し、仏様のお使いとして何かお役に立つことができる、という信心に立てます。成仏はその先に必ず見えております。そのことを当抄を拝して確信することができます。決まった法則の下で、このようにすれば良い結果が生まれる、とわかっている信心は日蓮正宗の信心だけです。これもすべて大御本尊様の偉大なお力です。ですからそんなに難しいことではありません。ただし覚悟はもたねばなりません。決意は必要です。

 申すまでもありませんが、いま仏乗寺法華講員には過去世からの罪障を消滅して一歩成長する好機にめぐり逢っております。明年に予定された菩提寺である仏乗寺の新築落慶入仏法要において、総本山より御下向下さる御法主日顕上人猊下の大導師のもと、共に読経唱題をさせて頂き、我が身の罪障消滅を願う機会は一生に一度、いや三世に一度かも知れません。この時に御本尊様のお使いをする覚悟をしなくていつしますか? この時に決意を新たにしなければ次の機会はないでしょう。いま覚悟をし、決意をすることにより成仏は約束されます。仏乗寺の檀信徒として、この機会をとらえて、一人ひとりが自信と誇りをもち、当日の法要を迎えようではありませんか。

 暑い季節を迎えますが、暑さに負けることなく唱題を重ね、この七月の御報恩御講を信心の節目として精進を重ねてまいりましょう。

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