日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年7月1日 永代経

妙法蓮華経方便品第二

(その三)

妙法蓮華経方便品

妙法蓮華経 方便品

所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。


【書き下し】

所謂、諸法の是の如き相、是の如き性、是の如き体、是の如き力、是の如き作、是の如き因、是の如き縁、是の如き果、是の如き報、是の如き本と末は究竟して等しい。


【現代語訳】

(諸々の法の真実の)すがたとは、次のようなものです。すなわち、すべての存在のこのようなあり方、このような特性、このような本質、このような能力、このような作用、このような直接的な原因、このような間接的な原因、このような原因によって生じた結果、このような結果として受ける報い、このような如是相から如是報までの本と末が究極的に一貫して平等であることです。


【語句の意味】

○如是は「かくのごとき」と読みます。このように、という意味です。
@如是相は外に現れた相貌(すがたかたち)をいいます。相は、もののかたち、ありさま、姿、形状、その物のもっている様子のことをいいます。
A如是性は内にある性質のことです。性質は、もともと具わっているもので、生まれついた性質、とか親の資質を受けたなどと言います。物や現象には本来異なった性質があります。そのことで区別をすることが出来ます。
B如是体は、外に現れた相と、内面の性を合わせた「全体」のことです。 この三つを「三如是」といいます。
C如是力は内に持っている力のことです。体があるということは、そこには力があります。畳を見ただけでは畳に力がある、とは思えませんが、私たちが座ることが出来るのは畳に支えるという力があるからです。椅子もまた同じように力をもちその力を発揮しているのです。このように、「力」があるように思わないものでも、体があるならば必ずそこには力があるのです。
D如是作は作用のことです。作用は、はたらき、たがいにはたらきかけることです。英語ではaction。内面の力が、外に現れてはたらくことをいいます。
E如是因は原因のことです。Gの「如是果」にいたる直接的な原因をいいます。よく「因果」なことだ、などと使いますが元はここです。
F如是縁は原因の周辺にあり、間接的な原因のことです。助縁といいます。助縁とは縁を助けることで、たとえば、マッチを擦ったときに、空気中ですれば火という「果」を招きますが、それが水中であれば火はつきません。マッチをする「因」の助縁が空気であり水です。縁により果が違うことになります。世の中にはこのような因と縁の関係はたくさんあります。どのようなものがあるか思い浮かべ、書きとめてみましょう。
G如是果は、Eの直接的な原因と、Fの間接的な原因があって生じた結果のことです。「因 と果」の間に「縁」があることに大切な意味が込められております。
H如是報は報い、報いは「知らせる」という意味がありますので、結果を具体的な形をもって知らせることを言います。
I本末究竟等の「本」は始めの「相」を、「末」は終わりの「報」のことで、@からHまでのすべて、ということです。究竟は、物の究極に達したところ、との意味もありますが、ここでは最初から最後まで終始一貫していることをいいます。「等」は、@からHまでのことはどのようなものにもすべてに具わっている、ということです。つまり、すべてに、相があり、性があり、体等があるということです。


○仏が「十如」を説く所以は、次のようにまとめることができると思います。それは
 @この世の中は、「十如」によって成立している。
 Aこの世の中のことは、「十如」によって説明することができる。
 Bこの世の中は、だれかによって創造されたものではない。
 Cこの世の中はだれからも支配をされていない。
 Dこの世の中のすべては、「十如」によって動いている。
ということです。


【十如是】

 十如是が明かされる直前に、仏と仏だけが極めつくした法が「諸法実相」である、と説かれました。その「諸法」が十種の真実の相である、として説き明かされたのが「十如」です。ゆえに、「十如実相」といいます。
 これまでの経文にも、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という十種の存在(十界)は明かされておりました。
 しかし、仏は仏、地獄は地獄とそれぞれが独立したものであり、法華経のように他の九界とを往き来することは説かれませんでした。「厭離断九の仏(おんりだんくのほとけ)」という言葉を聞いたことがあると思います。仏でも法華経以外の仏は、地獄界や餓鬼界、また菩薩界も含めた他の九界を厭(いと)い、そこから離れることを目標として修行をしている状況を天台が言い表した言葉です。
 ところが、法華経の方便品で、十如是が説かれ、十界に等しく十如是が存在することが明かされたのです。
 仏法では森羅万象を、変わらないものと、移り変わるものに分けますが、しかし、それは一体不二であると見ます。そして、そこに現れた世界を十界と立てます。その十界にはそれぞれの境界によって相違があります。そこに、「所謂、諸法の如是相・・・如是報・本末究竟等」という「十如実相」が説かれ、十界互具の理が明らかになったのです。
 つまり、仏界も地獄界も十如是を具えているということは、共通した「実相(まことのすがた)」を持ち合わせていることになります。すなわち、十如実相という共通の事項が説かれることにより、はじめて地獄界も仏界も差別のないもの、と捉えることが可能となったのです。


【一念三千】

 中国の天台大師は、この方便品の十如実相をより所として、『摩訶止観』で「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり。一界に三十種の世間を具すれば百法界に即ち三千種の世間を具す。」と、一念三千を説いたのです。「一心」は私たちの一心ですから、私たち人界の心に、仏界から地獄界までの十界が具わっている、との意です。仏界と地獄界という正反対のものが、同時に存在することを説き明かされたのです。
 天台大師は一念の中に宇宙のすべてを含み、また一念は宇宙に満ちていることを「一念三千」という言葉で表現しました。この一念三千を衆生に教えるために、十如を用いたのです。前述したように、仏法では、宇宙のあらゆる姿を衆生の面から捉えたものを十界としてときます。その十界にまた十界を具えていることを説明するためには、地獄界や餓鬼界、また仏界などに共通する何かが必要でした。その何かがこの場合「十如実相」で示された空仮中の三諦なのです。
 空仮中の三諦は、円融の三諦ともいい、今日的な言葉でいえば、差別の中の平等、平等の中の差別のことで、どちらも認めつつ、どちらにも偏らないあり方です。これを「中道実相」といいます。この三諦が十界のそれぞれにも具わっていることから、十界互具一念三千が導き出されるのです。
※三世間は省きます 
※「一心」は、文底から拝すれば、「大聖人様の一心」です。


【私たちの心にも仏様がおわします】

 私たち人界の衆生を例にとってみれば、人界の中におりながら、憐れみの心や思いやる心を持ち合わせています。また怒りや貪る心もあります。それは人界でありながら菩薩や仏の心がある証拠であり、地獄や餓鬼の心をもっていることなのです。したがって、人界にありながらも、衆生を導いて行く尊い使命感をもつことは仏界を覚知することであり、怒りや貪りなどを知ることは、地獄界や畜生界が現れたことを感じることです。このように人界の衆生でありながら、仏界も地獄界も具わっていると知ることが、差別の中での平等を知ることであり、平等といいながらも差別があることを知ることになります。そのうえで、仏界があるからと慢心をおこすことなく、また地獄界だからと卑下することなく、ありのままに自己を見つめ、修行を重ねることが中道実相の生活を築くことになります。


【仏様のお使い】

 そして、周囲の人々に対し、この一念三千の深い教えを伝え、導くことが、人界より菩薩界を、菩薩界より仏界を、と自己の向上を図る修行となるのです。
 「十如是」のもつ意味を少しでも理解できたならば、深くはわからなくとも、「何故三回読むのか」だけでも理解したならば、すでにあなたは仏の弟子の資格があります。尊い仏の弟子の自覚のもと、今日からは、漫然と十如是を三回繰り返す修行から、一歩踏み出そうではありませんか。私たちの周辺には、偏った思想に執われ、努力しても努力しても苦しみの世界から抜け出すことが出来ずに悩んでいる人たちばかりです。その人々に、お経本をみせて、「こんな修行をすれば必ず執着の心から離れ、すがすがしい気持ちで毎日が過ごせるようになる」と話そうではありませんか。すがすがしい気持ちになれば、自然と病気も良くなります。健康になれば経済環境も改善されます。筋道として明らかです。 私たちが修行する、富士大石寺の教えは世界中で一番尊い教えです。この御本尊様には大きな功徳がある、との確信をもち、大聖人様のお遣いをして世の中の役に立つ人生であることを願おうではありませんか。


【なぜ十如是は三回読むのか】

 私たちは、朝夕の勤行で十如是を三回繰り返します。このことを、三転読誦(さんてんどくじゅ)と言います。

@「如是相。如是性。如是体。・・・」と読みんでいますが、そのほかにも、
A「相如是。性如是。体如是。力如是・・・」と、
B「是相如。是性如。是体如。是力如・・・」の三種類の読み方があります。

@のように「如是相。如是性、」と読む場合は「是くの如き相、是くの如き性」となります。このように読むことにより、差別の面を中心として読むことになります。物事の相はすべてにおいて違いがある、という意味です。人界の衆生がおり、畜生界の衆生がおり、凡夫の目には触れませんが、天界や菩薩界の衆生も存在して、しかもそのすがたに相違があることを教えています。これは、因縁によって表われる仮りの姿ということで、「仮諦」、といいます。
Aの「相如是。性如是」と読むと「相、是くの如し」となります。つまり「相も如是なり、性も如是なり」と読むことになります。「相は如でもあり是でもある」となりますから両方の意味をもつことになります。物事には差別相がありますが、反面一切は平等であるということです。この因縁による差別の姿と平等の姿、差別即平等、平等即差別の中に中道という意味があるのです。ですから、「相如是」という読み方には、中諦という真理の意味があるのです。したがってこの読み方は「中道(中諦)」を意味することになります。
Bのように、「是の相も如なり、是の性も如なり」と読むと、「如」は「空」であり、万物ことごとくに差別がないことを示していますから、平等の面を中心として読むことになりますから「空諦」を意味します。
このように十如是を三回繰り返して読むことにより、宇宙の実相は、徹底して差別の相・性・体であり、また徹底して平等の相・性・体であることを学ぶことができるのです。
そして、この原理を活用することにより、私たちの生命の中に仏界が具わり、即身成仏の境界を開いて行くことができるのです。

※日蓮大聖人様と天台大師の違い(おなじ法華経を依経としていながら)
 天台大師は「十如実相」の経文から一念三千を説き明かしましたが、「十如実相」の本体を明かすことは出来ませんでした。
 日蓮大聖人様は、「十如実相」は妙法蓮華経であると示され、実相の本体を「南無妙法蓮華経」の御本尊として建立されました。天台の一念三千が「理」であり、大聖人様の一念三千が「事」である、というのはここからも明らかなのです。


(八月から寿量品です)

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日蓮正宗向陽山佛乗寺