日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年9月1日 永代経

妙法蓮華経如来寿量品第十六

(寿量品その二)

妙法蓮華経 如来寿量品第十六

妙法蓮華経 如来寿量品第十六

譬如五百千万億。那由他。阿僧祇。三千大千世界。仮使有人。抹為微塵。過於東方。五百千万億。那由他。阿僧祇国。乃下一塵。如是東行。尽是微塵。諸善男子。於意云何。是諸世界。可得思惟校計。知其数不。弥勒菩薩等。倶白仏言。世尊。是諸世界。無量無辺。非算数所知。亦非心力所及。一切声聞。辟支仏。以無漏智。不能思惟。知其限数。我等住。阿惟越致地。於是事中。亦所不達。世尊。如是諸世界。無量無辺。


【書き下し文】

譬えば五百千万億那由他阿僧祇の三千大千世界を、仮使人有って、抹して微塵と為して、東方五百千万億那由他阿僧祇の国を過ぎて、乃ち一塵を下し、是の如く東に行いて是の微塵を尽さんが如き、諸の善男子、意に於て云何。是の諸の世界は、思惟し校計して、其の数を知ることを得べしや不や。弥勒菩薩等、倶に仏に白して言さく、世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数の知る所に非ず、亦心力の及ぶ所に非ず。一切の声聞、辟支仏、無漏智を以ても、思惟して其の限数を知ること能わじ。我等、阿惟越致地に住すれども、是の事の中に於ては、亦達せざる所なり。世尊、是の如き諸の世界無量無辺なり。


【現代語訳】

(私が仏に成ってどれほどの時間を経過しているかを説明すると)〈たとえていえば、五百千万億那由佗阿僧祇〉、これは数量の単位のことです。五百×一千×一万×一千万〈この一千万か経文の億に相当します)×一千億(これが那由佗に相当)×阿僧祇は十の五十九乗といわれております。時間のある方は計算をしてみて下さい。ゼロがいくつになりますか。このような〈大きさの全宇宙を、人がすりつぶして粉々にしたとする〉というのです。途方もない大きさの宇宙世界を粉々にする、現実にそんなことができるかどうかということはともかくとして、微塵というのは目に見えないぐらいの大きさといえばおわかりになりますでしょうか、見えるか見えないかというところですね。〈その粉々になったものをもって、東に向かって進み〉とありますように、その目に見えるか見えないかわからないほどになったものを手に持って東に向かって進んで行くのです。なぜ東に向かうのかといいますと、日が昇る東方に一切の根源があるとするのです。ゆえに、法華経の寿量品も一切の経文の根源である、という意味を込められているのです。ですから〈東方〉に向かうのです。そして、〈五百千万億那由佗阿僧祇の数の国を過ぎた時に一粒を落としたとする〉ですから、粒の数を数えるだけでも大変なのですが、こんどはさらに通り過ぎた国の数を数えなくてはなりません。それも五百千万億那由佗阿僧祇ですから大変ですね。でもそのようにして一粒置いて行くのです。〈このようにさらに東に向かって進み、また五百千万億那由佗阿僧祇の国を過ぎて一粒を落とし尽くし、粉々にすりつぶしたものがなくなった時を想像してみようではないか善男子よ。その数をあなた達の心の中で考えたり計算したりして知ることができるかどうか、いかがであろう〉

 皆さん想像してみましたか?いかがでしょうか。この話を聞くだけで気が遠くなっていつの間にか気持ちよさそうにな方がいらっしゃいますが。想像を絶する、私たちの考えでは量り知ることのできないスケールですね。実は、昨年の九月と今年の七月にウランバートルに行ってまいりました。その時にゴビ砂漠を上を飛行機が飛んで行くのです。時速八〇〇キロで三時間ぐらいゴビ砂漠の上を飛んでいます。窓から見えるのは行けども行けども砂漠ばかりです。その上を日本に帰るときには真東に向かって飛びます。飛行機の中から下を見ているときに、このお経文の〈是の如く東に向かいて〉を思い出しました。肘掛けに付いているクッションが欠け、いかにも年代物であることが歴然としているモンゴル航空のジェット機ではありますが、その時には空飛ぶペルシャの高級絨毯に乗っているような心持ちになりました。その絨毯に乗り東に向かって飛びながら、微塵を一粒づつ落としている姿を想像しておりますと、もったいないことですが、何となくお経文の、「仮使有人。抹為微塵。過於東方。五百千万億。那由他。阿僧祇国。乃下一塵。如是東行。尽是微塵」の気分を味わっているような感じになりました。
 
 余分な話になりましたが、その仏の問いに弥勒菩薩が代表して、〈弥勒菩薩たちはそろって仏に申し上げた〉と答えたのです。弥勒菩薩は寿量品の対告衆です。方便品の対告衆は舍利弗でした。弥勒菩薩は釈尊の弟子でマートレイヤーと梵語では言います。バラモンの出身でしたが釈尊の弟子となりました。阿逸多(アイッタ)とも呼ばれます。

〈世尊よ、この諸々の世界は、量ることもできず、さらに際限のないものです。数量を知ることも不可能であり、また私たちの心の働きのおよぶところではありません〉と。 その弥勒菩薩が、とても理解できない、というわけです。無量とは量をはかることができないほど沢山ある多い、ということで、無辺は際限のない限りのない、広大ということです。ですから、ここでの無量無辺とは時間的にも空間的にも、という意味になります。そして、

〈すべての声聞達や、一人で悟り得ることのできたといわれる辟支仏達も、心を集中して考えをめぐらしても、その数を知ることができません〉と。声聞は、十界中の(仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界・・・)の声聞のことで、お説法を聞いただけで覚ることのできる勝れた境界を持っております。辟支仏は縁覚・独覚ともいい縁に触れるだけで覚れる能力の高い者をいいます。落ち葉がひらひらと舞う姿を見て仏の悟りを得たといわれるぐらいです。その者たちは無漏智といって、煩悩のない汚れなき智慧を得ているのです。そのような智慧で考えに考えても理解することができない、というのです。

〈私たち菩薩も、阿惟越致地という悟りの境界に近い不退転の位にありますが、このことに関しては到達することのできないものです。世尊よ、このように諸々の世界は量ることもできず際限もないものです〉

 ここに〈阿惟越致地〉とあります。舌を噛みそうな言葉ですが、〈阿毘跋致・あびばっち〉ともいい、退転することのない境界のことです。私たちは、御本尊様の前でお題目を唱えているときには、絶対に御本尊様から離れない、と決意をしますが、ある瞬間に何かあると、もう信心なんかやめてしまえ、となります。私たちの心は常に煩悩に支配されておりますから無理なからぬことです。しかし、最蓮房御返事には、
「法華経の行者は信心に退転無く身に詐親無く、一切法華経に其の身を任せて金言の如く修行せば、慥かに後生は申すに及ばず、今生も息災延命にして勝妙の大果報を得、広宣流布の大願をも成就すべきなり」
とありますように、不退転の信心が大切です。「息災延命」ですから、病気をしないで長生きができる功徳を受けることができる、ということですね。その先に広宣流布がある、という御指南です。

 ともあれ、私たち末法の凡夫がいくら考えても理解ができませんね。池田大作さんのように、すべてがわかるんです、などというと嘘っぽくなります。謙虚が大切です。池田さんのようにならないように、彼を「他山の石」とすることも大切な意義があります。

 しかし、わからないから、と諦めてはなりません。先月のところで、〈信解〉を学びましたが、信ずることから始まるのであり、〈一念信解〉が大切ですね。したがって今は理解できなくとも、お題目を唱え、折伏を実践して行く間に必ずわかるときが来ます。お墓に入る直前かも知れませんがその時が必ずある、このように思って勤行唱題をして行けば楽しいですね。これからだんだんと年をとって、身体も不自由になって善いことなんかなくなる、と嘆いている年配の人はおりませんか?ここにはいらっしゃいませんが、もしそのような愚痴を聞くことがあったなら、法華経の教えは信ずることによって菩薩様たちでさえ理解できなかったことを私たちが理解することができるようになるの。お墓に入る直前かも知れないけれど、常に進歩していることがわかる教えよ、と折伏をしてあげようではありませんか。

 さて、〈五百塵点劫〉と〈三千塵点劫〉とどちらが長いですか、とお尋ねしますと、半分ぐらいの方が〈三千塵点劫〉と答えます。五百と三千では三千が多いですから致し方のないことです。しかし、五百の方が長いのです。それは〈千万億那由佗阿僧祇劫〉を略していうからです。間違ってあたりまえですね。お経文や御書にはこのように省略したものが時々あります。でも聞いてみるとナーンダ、と納得ができます。だから学ぶことは大切ですね。
 私たちにとっては途方もない五百塵点劫ですが、これはまだ短い時間なのです。文底から拝すると、その先があると説かれるのです。それが
「五百塵点劫の当初(そのかみ)」
 (御書・『当体義抄』六九六頁・『総勘文抄』一四一九頁・『三大秘法抄』一五九四頁)
のご指南です。五百塵点よりもさらに「いにしえ」がある、ということです。この時を「久遠元初」といいます。ここの仏様が日蓮大聖人様であられます。ですから久遠の仏様、ご観念文では「久遠元初の自受用報身如来」とあるのは日蓮大聖人様の御事です。

 身延派等では五百塵点劫の仏として釈尊を有り難がっておりますが、三大秘法抄等に明らかなように、日蓮正宗の拝し方こそ日蓮大聖人様の正しい教えであることがここからも明らかです。

 残暑の厳しい毎日ですが秋の気配もあちこちで感じられます。お題目を唱へ、御書を拝し、広布を思う秋でありますように。

 ご精進をお祈りいたします。

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