日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年11月12・12日 御報恩御講

弥源太殿御返事

弥源太殿御返事 (御書七二二頁)
文永一一年二月二一日 五三歳

弥源太殿御返事 (御書七二二頁)

日蓮をつえはしらともたのみ給ふべし。けはしき山、あしき道、つえをつきぬればたをれず。殊に手をひかれぬればまろぶ事なし。


【意訳】

 歩くときには杖を頼りにするように、また家の屋根を支える柱のように日蓮のことを信じなさい。嶮しい山道を登るときにも、雨でぬかるんだ悪路を行くときに、杖をついていたなら倒れることはなく無事に歩くことができます。さらに手を引かれていれば決して転ぶことはありません。



【解説】

 弥源太は、文永五年十月の「十一通御書」には「殊に貴辺は相模守殿の同姓なり」とあることから、北条一門であることが知れます。しかも当時の政治を動かしている主要な十一人の中に入っておりました。他に『弥源太入道御消息』『弥源太入道殿御返事』をいただいております。当抄をいただいた時には夫婦そろって強盛に励んでいたようです。生年や没年などは伝えられておりません。



【当抄の概略】

 当抄は文永十一年(一二七四年)二月二十一日、身延から北条弥源太に与えられた書です。大聖人様はこのとき五十三歳でした。ご真蹟は伝えられておりません。弥源太が何事かの御祈念を願い出たようです。そのご返事です。

冒頭で

「日蓮は日本第一の僻人なり」

と仰せになります。僻人である理由を「(誤った信仰をすることにより)今生には身をほろぼし、国をそこなひ、後生には大阿鼻地獄に堕ち」と、邪な宗教は我が身も国も滅ぼし、来世には無間地獄に堕ちるのである、と獅子口され折伏を「一日片時もたゆむ事なくよばわりし故大難にあへり」と述べられます。このように口に出し、行動をすることは、虫が火に飛び込み、ネズミがねこの前に出るようなもので、自らの命をそまつにしているようなものだから、「僻人」である、と続きます。

 また、そのように命を狙われる「法難」に遭うのは法華経の行者である証拠である、とされ、その例えとして、「玉を含んだ石、貴重な皮の鹿、美しい羽を持つかわせみ、美人」などは何れも貴いもの、美しいもの、勝れたものであるが、その故に、ねたまれたり命を奪われることを挙げておられます。そして、法難に遭う大聖人様のお立場の尊さを顕かにされております。

 したがって、このような日蓮の信仰をするのは過去世からの不思議な因縁であろう、と仰せられ、さらに、大聖人様と同じように弥源太にも難が起こるであろうが、信心を強く持って励み、来世にはともに仏の住まわれる霊山浄土に行こうではないか、とご指南をされます。

 ついで、刀は使い方によっては悪いものになるが、ご本尊様へのご供養としたのであるからよき働きに変わるであろうと仰せになり、具体的に、来世においては、杖や柱の役目をする、とされ、また日蓮大聖人様こそ末法の衆生にとって杖や柱であると仰せになり、御本仏としてのありがたいお言葉を記してくださいます。

 最後に、弥源太に対して、益々強盛に励み願いが成就するように指導され、さらに弥源太ばかりではなく、女房もともに励むように仰せになり筆をおかれています。

 僻人とは〈ひがむ・かたよる・ひねくれる〉等の意味です。ですから、大聖人様は自らのことを「日本で一番のひねくれ者である。変わり者である」と仰せになるのです。大難に逢うことがわかりきっていながらな折伏をするから、「僻人」なんです。しかし、だだの変人ではありません。

 私たちも「変人」と呼ばれることがあります。たとえば町内の祭りのとき。神社には絶対に寄付をしません。御輿も担ぎません。おそらくキリスト教の人たちと日蓮正宗の私たちだけでしょう。そこで、周囲からは「変わっている」といわれます。会社の旅行の途中で寺社の参拝があったときに、寺社には入らずに一人バスに残って運転手さんを相手に仏教談義をするのも日蓮正宗の信徒です。同僚から「変わっている」といわれます。

 しかし、仏様の教えを根底にした信仰を中心にした行動で、世間から「僻人」といわれても心配することはありません。日蓮大聖人様もそのように言われていたのですから。ご安心ください。反対に「あなたも最近は丸くなったわね」といわれることのないように注意をしなくてはなりません。成仏の修行とは斯くも厳しいものなのです。厳しいからこそご利益も大きいことを知っておかなくてはなりません。当抄でも、

「日蓮さきに立ち候はば御迎へにまいり候事もやあらんずらん」

と仰せ下さいます。私たちが臨終の後は、日蓮大聖人様が迎えに来てくださり、霊山浄土に導いてくださる、とのお言葉です。



【本日のポイント】

「日蓮をつえはしらともたのみ給ふべし」

とのご文です。大聖人様は「日蓮を杖や柱のように頼りにしなさい」仰せ下さいます。このお言葉は、大聖人様が末法のご本仏であられることを明確にご指南くださるものです。末法の衆生の一人である弥源太、しかも武士ですから人の命を奪うことを生業とする悪人です。そのような者であっても日蓮が必ず救ってあげようと仰せになります。これは一切衆生を一人も残らず成仏に導いてくださるご本仏の御慈悲あふれる言葉です。

 もう一点は、私たちに、「ご本尊様を頼りとしなさい」と教えて下さっている、と拝することです。ご本尊様を頼りにすれば、辛いとき、悲しいとき、前に進むことができなくて倒れそうになったときに、ご本尊様が必ず支えてくださるのです。

 頼りにしなさい、とはいつも日蓮のことをいつも思っていなさい、ということです。頼るとは、いつも思うことです。そのときだけ思っていたのでは頼りになりません。朝夕の勤行をするのは大聖人様を思うことです。そこにご本尊様よりのご加護があります。ご自宅に御安置のご本尊様は日蓮大聖人様です。日蓮大聖人様を心の底から思うことが大切です。そして、大聖人様の御指南のままに信心を続けることが「日蓮をつえはしらともたのみ給ふべし」となります。

 十一月のご報恩御講が終わればすぐにお正月です。今年の目標は達成できましたでしょうか。まだの方は、ご本尊様を思うことから始めましょう。

 あせることはありません。まだ四十五日あります。これまで、勤行が義務になっていませんでしたか。お題目がなおざりになっていませんでしたか。もしそうであったなら、今日から、大聖人様を頼りにする信心、つまり、大聖人様のことを心から思う信心に徹しましょう。そうすれば、目標は達成できます。本年も最後まで精進を重ね、明年を明るく楽しく朗らかに迎えましょう。

 寒くなります。法華経の行者は寒風の中で鍛えられます。ぬるま湯では成長はありません。ご本尊様とともに、「いつも日蓮大聖人様とご一緒」の心で進みましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺