日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成17年12月11日 御報恩御講

御義口伝

御義口伝 (御書一七四九頁)
弘安元年一月一日 五七歳

御義口伝 (御書一七四九頁)

第四 与如来共宿の事

 御義口伝に云はく、法華の行者は男女共に如来なり。煩悩即菩提・生死即涅槃なり。今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は与如来共宿の者なり。傅大士の釈に云はく「朝々仏と共に起き、夕々仏と共に臥す。時々に成道し、時々に顕本す」云云。


 『御義口伝』は『本因妙抄』や『百六箇抄』のように大聖人様から日興上人への、一器より一器に水を移すような意味での純粋なご相伝の書でありませんが、大聖人様が唯授一人の御法を受けられる弟子に対し、大聖人様の仏法の正意をご講義をされたものです。釈尊が説いた法華経を土台とされ、大切な文を取り上げて、末法の教相と観心について講義されたものを、日興上人が筆録されました。文底の仏法から釈尊の仏法を判釈遊ばされた大聖人様の御教えそのものです。

 したがいまして、私ごとき浅学のものが当抄を云云することなど到底できるものではありません。しかし、毎月の行事予定に掲載されている御聖訓を御報恩御講において、学んでいる関係上、今月だけは他の御書、というわけにもまいりません。そこでご参詣の皆さまとご一緒に拝読し、大聖人様の御慈悲を賜りたいと思います。

 拝読の箇所は、法華経法師品第十の御文を解釈されたものです。
「法師品」には次のように説かれております。

 薬王、当に知るべし。如来の滅後に、其れ能く書持し、読誦し、供養し、他人の為に説かん者は、如来則ち、衣を以て之を覆いたもう為し。又、他方の現在の諸仏に護念せらるることを為ん。是の人は大信力、及び志願力、諸善根力有らん。当に知るべし、是の人は如来と共に宿するなり。則ち如来の手をもって、其の頭を摩でたもうを為ん。

 この経文は薬王菩薩に対して説かれたものである。「如来」とは仏の十号の一つで、 如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊という十種類ある仏の尊称の一つである。ここでは、仏が入滅された後に、法華経を書いたり所持したり、声に出して読んだり心の中で読んだり、経文を供養をしたり、また周囲の人々のために仏の教えを説く人は、仏が清浄で大きく暖かな衣でつつみこんで下さる、また多くの仏が、そのような人が護られるように念じて下さる、さらに、法華経を所持したり教えを説き聞かせて行く人には、仏の言葉を信ずる大きな力があり、周囲の人々に法を説き、仏の許に導いて行こう、という尊い志を願いをもっている。物事の本質を見極めて人々を導くことのできる力を持っている。そのような人は、仏と常に同じところに居て、仏から全幅の信頼を得ることができるのである、と説き示される。

 拝読の『御義口伝』はこの経文の「与如来共宿(如来と共に宿するなり)」を解釈されたものです。

 私たちが拝する「法華経の行者」とは日蓮大聖人様のことです。末法に御出現の「法華経の行者」といえば日蓮大聖人様以外にはありません。まずそのことを念頭に置くことが大事です。そして次のお言葉である「男女共に如来なり」を拝しますと、末法の法華経の行者であられる日蓮大聖人様の教えを信じその通りに修行に励む法華講衆は、男性や女性の違いはあったとしても皆仏です。なぜならば、煩悩即菩提・生死即涅槃を徹底した教えが法華経の文底の法門だからです。そのように説く日蓮を信じ南無妙法蓮華経と唱えるものは日蓮と共に居るのです。傳大士は「朝がくれば御本尊様と共に起きあがり、夜は御本尊様といっしょに眠る。常に御本尊様といっしょであるから常に成仏の境界であり、常に仏の姿を顕してる」と説いています。

 富士大石寺の大御本尊様を中心として、南無妙法蓮華経と日々怠らずに修行に励む姿はこの御文の通りであるといえます。朝、御本尊様の前での勤行は、命の奥底に眠っている仏性を揺り起こすことでしょうか。仏様のお使いとしての一日を過ごし、その活動により色々な縁に触れ、さまざまに変化した命を清浄にしていただくのは夜の勤行唱題でしょうか。そして御本尊様に見守られた安らかな眠りは、明日の弘教のために生命の充電をしているように感じます。

○語句の意味 【煩悩即菩提・生死即涅槃】法華経以外の教えでは煩悩は悟りの妨げとなるものであるから、煩悩を取り除く修行が大切である、として難行苦行を課したり、反対に、煩悩を取り除くことなどできるわけがない、だからこの苦しみの世界を離れ別の清らかな世界で仏の救済を受けよう、などという仮りの教えが説かれる。しかし、法華経の本門にいたって、仏の三世常住が明かされ、それと共に衆生の即身成仏も徹底して説き明かされた。一念三千の法門は煩悩に覆い尽くされたように見える凡夫にも仏がおわします、ということを明かされたものであり、生死生死の繰り返しのように見える生命も、過去・現在・未来と三世に変わらぬものである、と教えてくれ、苦しみが充満しているこの娑婆世界も仏の世界である、と示されたものである。この煩悩即菩提・生死即涅槃を日常にあてはめて考えると、貪瞋癡の三毒より起こる煩悩など消してしまいたいと思うが、消してしまうと思うよりも、それらに立ち向かい解決をして行こうという闘いがあってはじめて心を深めることができるのである。生死即涅槃については、「臨終のことを習ふてのち他事を習え」と大聖人様が御指南下さるように、死を思うことにより生きている自分を認識し、死があっての生なのだから、生を懸命に見つめることにつながるのである。ともあれ、南無妙法蓮華経の三大秘法の中にあって初めて味わうことのできる「煩悩即菩提・生死即涅槃」の境地である。

【傳大士(ふだいし)】中国南北朝時に多くの衆生を教化した僧侶。大聖人様は、「薬王菩薩は天台大師となり、観世音は南岳大師と成り、弥勒菩薩は傅大士となれり」(『呵責謗法滅罪抄』 七一四頁)と、傳大士は弥勒菩薩の生まれ変わりであるとされている。

慌ただしい年末年始を迎えますが、御本尊様を強く想えば、世情が騒がしくとも心は寂静。 共に精進を!

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日蓮正宗向陽山佛乗寺