日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成18年2月5日 広布唱題会

妙心尼御前御返事

妙心尼御前御返事 御書九〇〇頁
建治元年八月一六日  五四歳

妙心尼御前御返事 (御書九〇〇頁)

このやまいは仏の御はからいか。そのゆへは浄名経・涅槃経には病ある人、仏になるべきよしとかれて候。病によりて道心はおこり候か
 

 釈尊の出家の動機の一つに病苦があることはよく知られたことです。したがって、仏法は病苦に直面したときにどのように立ち向かうかを教えてくれるものであるといえます。

 当抄で日蓮大聖人様はお経文を引かれ、「病のある人が強い信仰を持つことができる、その結果成仏の境界を開くことが叶う。故に病は仏様が計らってくださったものである」と仰せくださるのです。さらに、
『太田入道殿御返事』 (九一〇頁)では
「御痛みの事一には歎き二には悦びぬ」
とも仰せです。なぜ喜ぶのでしょうか? その答えが、
「宿縁の催す所、今生に慈悲の薫ずる所、存の外に貧道に値遇して改悔を発起する故に、未来の苦を償ひ現在に軽瘡出現せるか。乃至 所持の妙法は月愛に超過す、豈軽瘡を癒やして長寿を招かざらんや。此の言葉徴無くんば声を起こして叫喚せよ。一切世間の眼は大妄語の人、一乗妙教は綺語の典、名を惜しみたまはゞ世尊は験を顕はし、誓いを恐れたまはゞ諸々の賢聖は来たり護り給へと」
です。過去世の罪により大きな苦しみを受けなくてはならい身であっても、南無妙法蓮華経の教えを信じ折伏を行ずることにより重い報いを軽く受けることができるのであるから現世での病は喜ぶべきことである、との仰せです。さらに、願いが叶うように御本尊様への絶対の確信を持って祈ることを教えてくださいます。「声を起こして叫喚せよ」というお言葉がそれです。

 『可延定業御書』(七六一頁)では
「かへすがへす身の財をだにもをしませ給わばこの病治しがたかるべし。一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」
と仰せになり、命が大切なのであり、身の財を惜しんではならない、と具体的に病に立ち向かう姿勢をご教示くださいます。

 信仰をしていながらなぜ病気になるんだろうとか、信心をしていながら病気になるのは恥ずかしい、と思ったことがありませんか。それは、かつて池田大作の「病気になっても病院へ行ってはならない、体にメスを入れるのはよくない」との指導に起因するのです。彼の次男は胃に穴があくような重病であっても満足な手当てを受けることが出来ず、次男が入院したことを隠したい池田はベッドに付ける名札さえ本名を書かせませんでした。実に気の毒なことです。次男の成仏を祈るばかりです。

 しかし、日蓮大聖人は病を決して悪いもの、とは仰せになりません。病があることにより信心が深くなる、と仰せです。較べるのも申し訳ないことですが、大聖人様と池田大作の違いがよくわかる事例です。池田大作を教祖と仰ぐ方達に教えてあげましょう。

 病に罹らないように日頃から摂生に努めることは勿論です。しかし、「業病」は過去の謗法によって起こるのですから避けることは出来ません。その時に、いかに対処するか、そこが問題なのです。日蓮大聖人は、病を病と受け止め、そこから逃げることなくさらに信仰に励むと共に、病院にも行き、薬も飲み治療を加えることを教えて下さるのです。

 病を「病魔」ともいいます。「魔競わずば正法と知るべからず」の御書に照らし合わせると、病が起こることは信仰が進んだ何よりの証拠です。病気になって困った、と考えるよりも、病気を克服して折伏のお役に立とう、その為に大聖人様が病気をはからって下さった、このように受け止めることが現世と来世につながる信仰です。

 恥ずかしいとか情けないと思わないで病気になったら先ず住職にご相談下さい。一緒にお題目を唱えましょう。そして御本尊様のお力を頂きましょう。

 立春も過ぎ日差しも力強くなってきます。十一月の落成式を目指し、御法主上人にご嘉納頂けるように、「折伏の生活」をさらに深めようではありませんか。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺