日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成18年3月12日 御報恩御講

是日尼御書

是日尼御書 (御書一二二〇頁)
弘安元年四月一二日 五七歳

是日尼御書 (御書一二二〇頁)

佐渡の国より此の甲州まで入道の来たりしかば・あら不思議と思いしに・又今年来たり菜摘み、水汲み、薪こり、檀王の阿志仙人につかえしがごとくして、一月に及びぬる不思議さよ。筆をもちてつくしがたし。これひとえに又尼ぎみの御功徳なるべし。又御本尊一幅かきてまいらせ候。霊山浄土にてはかならずゆきあひたてまつるべし。恐々謹言

 卯月十二日
               日蓮
尼是日

是日尼=佐渡の国住していた御婦人。
佐渡の国=新潟県の佐渡島。大聖人は文永八年(一二七一)から文永十一年(一二七四)までのあしかけ四年間、この島に遠流の身であった。
甲州=現在の山梨県。「身延の山」とか「波木井の郷」等の表現もされる。
菜摘み、水汲み、薪こり、檀王の阿志仙人につかえしがごとくして=法華経提婆達多品第十二の中で「時に仙人(阿志仙人)あり、来たって王(檀王)に白(もう)して言(もう)さく、我大乗を有(たも)てり、妙法蓮華経と名づけたてまつる。若し我に違わずんば、当に為に宣説すべし。王、仙の言(ことば)を聞いて、歓喜踊躍し、即ち仙人に随って所須(しょしゅ)を供給(くきゅう)し、果を採り水を汲み、薪を拾い食を設け、乃至身を以て牀座(しょうざ)と作せしに、身心倦(しんじん、ものう)きことなかりき。時に奉事(ぶじ)すること千歳(せんざい)を経て、法の為の故に、精勤(しょうごん)し給待して、乏(とぼ)しき所なからしめき。」

経文の意味は、
檀王という国王がおりましたが、国王というなに不自由のない生活に満足せず、多くの国民に人としての道をわきまえさせるようにしたいと願い、先ず自身が教えを求める為に国王の地位をなげうち師を求めた。そのときに仙人があって、来たりて王に申すには、自分は大乗の教えをたもち、それを妙法蓮華経と名づけ奉っている。もし自分の言うことに少しも違ず、命に背かなかったならばそれを説いて聞かせよう、と仙人が言った。王は仙人の言葉を聞いて躍り上がって喜び、即座に仙人に随って所須をそなえた。所須とは日常の食物とか衣類とかの生活に欠かすことの出来ない物のこというが、果実を採り、水を汲み、薪を拾い、食事の準備をしたりとなに一つ仙人が不自由なく修行が出来るようにした。また道を歩いていて仙人が疲れたら、自分が地面に腹這いになり、背中に座らせ休ませてあげた。このようにあらゆる方法で仙人に仕えたが、檀王は「身心倦きことなかり」と決して疲れるということがなかった。身も心も疲れることがなかったのは、仏になることが出来るのであればどんな苦労も厭わない覚悟があったからである。そのようにして永い間仙人の日常に乏しいところがないように励んだということです。
 
 「師厳にして而こうして後に道尊し。道尊くして而こうして後に民道を敬することを知る」という言葉が中国の礼記にありますが、現在の私どもにとっても大事なことだと思います。もっともこれは「盲信」と違いますので誤解のないように。度々申し上げておりますように、日蓮正宗の師は大聖人であられ、大聖人より「日興上人に背くものは謗法である」と仰せられた日興上人以来歴代の御法主上人が私どもの根本の師であります。決して途中の人が根本の師とはなりえないのです。勿論「善知識」として互いに仏道に励む上からの役割があり、それぞれの立場立場で励まし合って異体同心の和合僧団を構築することが大切なのはいうまでもありません。

 さて御書に戻りますが、大聖人の御流罪中に折伏を受けた方々が、大聖人が佐渡にいなくなられても、その信仰を純粋に続けていたことがこの御文から拝することができます。阿仏坊や、国府入道やこの是日尼のご主人等等多くの人達が大聖人のおわします身延を目指して日本海の荒海をわたり、新潟からの陸路も、山を越え谷を渡り、今の我々では想像もつかない厳しい道中を歩み、大聖人のもとに到ったということは、まさに「純粋な信仰心」以外のなにものでもありません。更にその上、大聖人のもとにある一箇月の間は、経文に記される檀王のように、深い谷へ下りて水を汲み、険しい山に入って薪をとり、また四月の事ですから山菜がとれたのでしょうか、菜を摘み大聖人さまに御給仕をされたのです。

 登山をするだけでも大変なのに、その上かくの如き姿を皆さんどう思われますか。時代が違うのは当たり前ですが、登山の精神が「便利主義」になってはおりませんか。今一度、登山の精神をこの御書によって学ばなければならないと思います。ここで大聖人が教えておられることは
一、に道の遠きを厭わず足を運ぶ尊さです。
二、に遠くから足を運ぶことで満足せず、大聖人にお仕えすることです。
三、に留守を護るかたにも登山参詣をした方と同じように功徳が頂戴できるということです。

 一については今更申しあげるまでもありません。「道の遠きにこころざしのあらわれるおや」です。私たちの仏乗寺は、交通の便が非常に良いところであります。決して「道の遠き」所ではありません。しかだって「心をしっかりと定める」ことがより肝要になります。

 二については現在そのままあてはめることは出来ないかも知れません。水道もあればガスもあります。しかし、大御本尊様を外護申し上げ、末法万年にわたって伝えていく努力をすることは出来ます。また塔中にゴミが落ちていたら拾って屑籠にいれるとか、決して本山を汚さないという気持ちは何方でも持つことが出来ます。大聖人にお仕えした当時の方々の気持ちを今の我々の心に蘇らすことが「仙人に随う」即ち大聖人の教えに随ことです。

 三に何かの事情で登山が出来ない、色々あります。経済的なこと、家庭的なこと、肉体的こと。人それぞれです。だからといって登山をしなくてもよいとは大聖人は仰っておりません。これらのことを全て大聖人がご覧下さって、「留守を守る奥さんの功徳にもなります」とおおせになっているのです。「主人が行くから私はいいの」という精神はお互い戒めてまいりましょう。

 是日尼の、ご主人が登山に出発されたと同時に、御本尊様に向かって道中の安全を一心に御祈念されていた姿が目に浮かびます。登山したくても何らかの理由で行けないのと、自分はいいや、というのではその結果がまるっきり違うと言うことを肝に命ずる必要がある、と教えて下さるのが三であると思います。

 来月には御代替わり慶祝登山があります。五十年に一度、また御法主上人がお代わりになったときしか許されない「御生骨の内拝」がございます。普段の支部登山等とは多少勝手が違います。早朝の出発はご苦労であると思います。多少の制約もあります。そこで、うるさいことを言う、と思うかも知れません。しかし、運営をする方々は一生懸命に取り組み事故のないように努力をしております。創価学会のように、仕事、職業として登山の運営をしているのではありませんから、万全でないところがあると思いますが、一人一人が「自分たちの為の登山」と自覚すれば必ず大成功に導くことが出来ると確信をいたします。新しい猊下の御登座をお祝い申し上げる登山である、という自覚、誇りを命に刻むことが出来ればどんな魔が襲ってこようとも撃破し、堂々の前進ができます。

総本山大石寺の客殿と秀麗富士。4月には御代替をお祝い申し上げる慶祝登山があります。750年の歴史を富士の麓で刻んできました。

 日蓮大聖人は種々御振舞御書のなかで
「行解既に勤めぬれば三障四魔分然として競い起こる」(御書一〇六三頁)
と仰せになっております。いま記念すべき慶祝登山を阻止しようと「魔」がうごめいております。仏乗寺にも不審な電話や怪文書が送られて来たりして攪乱を狙っております。皆様のお宅にも青年部や婦人部が訪問していると報告を受けております。彼らは一様に礼儀正しく丁寧な態度で接して来ます。しかし、それが彼らの常套手段であると言うことを忘れないで下さい。かって皆様が脱会したときの態度と百八十度違うのは何故かと考えることが必要だと思います。実に「第六天の魔王」は巧みに事を運びます。気が付いたらもう手遅れとなるやも知れません。特に口コミによる人物批判などはお手のものですから注意が必要です。そうして私ども法華講衆は決して他人の事をとやかく言わない、という精神でおれば魔の計り事に引っ掛かることはありません。御信心第一ということです。今こそ勇気をもって正義の行動をとる時です。勇気とはなにか、それは大御本尊様を根本にした活動です。広宣流布の先陣をきる覚悟です。この心さえあれば「第六天の魔王」といえども手出しは絶対に出来ません。積極的に来月の慶祝登山に参詣しようではありませんか。

 余程日蓮正宗が怖いのでしょう。血脈を御所持遊ばされる御法主上人の存在が恐ろしくて恐ろしくてたまらないのでしょう。「日顕上人が退座されたら元に戻る」といっておりましたが、日如上人になられても日顕上人と同じ御指南です。その御指南にしたがって正々堂々と人生を謳歌する法華講衆が羨ましいのでしょう。嫉妬、怨嫉の気持ちに侵されきっている姿が現在の池田宗の者どものです。それを「魔」と見抜き打ち破っていかなくてはなりません。そう申しますとなにか不安になるかと思いますが、ご心配は御無用です。何故ならば私たちは富士大石寺の血脈の通った御本尊様をお守りしているではありませんか。勤行唱題をしているではありませんか。この修行こそ猊下が私どもに与えて下さった「魔を魔と見破る修行」なのだと私は思いますいかがでしょうか。どうか恐れることなく、相手の術中に落ちることなく堂々といこうではありませんか。

 支部総登山の時には何時も申し上げていることですか、登山は「本山に参詣する」と決めた時から始まっていると言うことも今一度確認しておきたいと思います。本山で御開扉を受けるのが最大の目的ですがそれだけではないと言うことです。登山を無事にさせて戴くように、勤行の時に、五分でも十分でも結構ですから登山の為の唱題をしましょう。又、御書に登山について示されたところがございます。その御文を拝読しましょう。分からない方はお尋ね下さい。ページを教えます。そして本山に足を運ぶ意義を今一度心に刻みましょう。又その意義を留守番をしてくれるご家族や、ご近所の友人に話して聞かせようではありませんか。「私どもの御本山は、日蓮正宗大石寺は静岡の富士山の麓にあります。七百年の歴史があり、京都や奈良のお寺とは規模も意義も格段の違いがありますよ」とお話をしようではありませんか。大聖人にお会いする御開扉を楽しみに、待ち遠しく日々をおくっている人は輝いております。丁度恋をした乙女が美しくなるのと同じだと思います。十如是の一つ「如是相」が美しくなれば他の九つも自然と具わるというのが一念三千の原理であり真理です。皆さんのそういう姿が折伏につながると言うことも申し上げておきます。

 鎌倉の人達がそうであったように、佐渡の島の法華講衆が実践したように、大聖人にお会いしたいという一念で唱題を重ねることころに成仏があります。したがって、我々の信心を難しく考える必要はないと思います。単純に、いかにすれば大聖人にお褒め戴けるか、これにつきます。どうかその気持ちを忘れずに励みましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺