日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成18年7月 盂蘭盆会

四条金吾殿御書

四条金吾殿御書 (御書四六九頁)
文永八年七月一二日 五〇歳

四条金吾殿御書 (御書四六九頁)

 雪のごとく白く候白米一斗、古酒のごとく候油一筒、御布施一貫文、態と使者を以て盆料送り給び候。殊に御文の趣有り難くあはれに覚え候。
 抑盂蘭盆と申すは、もと目連尊者の母青提女(しょうだいにょ)と申す人、慳貪(けんどん)の業によりて五百生餓鬼道(ごひゃくしょうがきどう)にをち給ひて候を、目連救ひしより事起こりて候。然りと雖も仏にはなさず。其の故は我が身いまだ法華経の行者ならざる故に母をも仏になす事なし。霊山八箇年(りょうぜんはちかねん)の座席にして法華経を持ち、南無妙法蓮華経と唱へて多摩羅跋栴檀香仏(たまらばつせんだんこうぶつ)となり給ひ、此の時母も仏になり給ふ。


【意訳】

 お盆の追善供養の御供養として、雪のように白く精米されたお米を清らかな心が込められた白米を一斗、古酒のような琥珀色の油を一筒、御供養として一貫文、わざわざ使者を立ててお送り下さったものを確かに拝受いたしました。ことに、あなたの送り状の中にあった母上の来世を心配される親孝行なお心に触れ、日蓮は強く感激をするとともに貴く思います。

 そもそもお盆の法要の始まりは、釈尊の十大弟子の一人であり、不思議な神通力を得た目連尊者の母親である青提女を餓鬼界の苦しみから救ったことにあります。

 青提女は生前に托鉢の行で訪れた釈尊に、さし上げる食べ物があるにも拘わらず、「私のところにはさし上げるものがない」といって御供養をしませんでした。そのように物惜しみをした、「慳貪の罪」により五百回生まれ変わるほど長い長い間、欲しいものが手に入らない、という餓鬼界の苦しみを受けておりました。そのことを知った目連尊者が、母親の苦しみを救うために、千人の僧侶に百種類の食べ物を御供養して、青提女を餓鬼界の苦しみから救うことができたのです。お盆はここから始まりました。

 ところが、目連尊者は母親を餓鬼界の苦しみから救うことはできましたが、成仏という最高の境界に導くことはできませんでした。なぜならば、目連尊者自身が仏ではなかったからです。やがて目連尊者は、霊鷲山の法華経を説法された法座に連なり、その席で未来に多摩羅跋栴檀香仏となることを約束され、その時に母の青提女も共に成仏が叶えられました。


【お盆の法要を通して】

○一つ目は、欲張らないことです。

 青提女はたった一杯のご飯を惜しんだことで五百回生まれ変わるほどの長い間、餓鬼界から出ることができなかったのです。餓鬼界とは物が欲しくて欲しくて仕方のない心の状態です。一時も満ち足りた心になることができない、そのような状況を想像してみてください。「お金で買えない物はない」という風潮に支配された私たちへの警鐘でもあります。十億円の貯金があっても十億一円を望むような心を餓鬼界といいます。やがて堀江某、村上某のように身を滅ぼします。

 仏法では、「喜捨」を説きます。読んで字の如く「悦んで捨てる」という意味です。何を捨てるか、そこが大切なところです。そのことを御文で拝しますと、
「雪のごとく白く候白米一斗、古酒のごとく候油一筒、御布施一貫文、態と使者を以て盆料送り給び候」
とございます。今日から見ますと、お米は白くて当たり前ですね。しかし年配の方にお伺いするところによれば、白いお米は宝物のように感じた、といわれます。ことに戦後まもなくの頃はそうであったと聞きます。鎌倉時代ですからなおさらでしょう。白米の持つ意味が理解されます。しかも、「雪のような白さ」ですからおそらく、四条金吾さんご自身が精米をされたのでしょう。母親を思うこの真心が伝わってまいります。また油やお金も同じです。ともに貴重な物です。それらをさらに、わざわざなのです。ついで、ではありません。お盆の供養のためだけに使いを立て、日蓮大聖人様に御供養をされる、そこに真心を尽くす姿を見るのです。

 大切な物、貴重な物を仏様にお供えすることにより、執着の心を捨てる修行をすることを教えてくださるのです。亡き方を前にして、命は永遠ではないと悟り、蔵の宝は死後の頼みとはならない、と知ることにより執着の心から解放されたことを喜ぶのです。餓鬼界の苦しみのもとになるのは、悪しき執着心ですから、それを未然に防ぐために喜捨を勧める、といえます。


○二つめは、私たちの修行、という点です。

 目連尊者が法華経の修行をして、法華経の修行による功徳で仏に成り、母親を成仏に導くことができた点を見逃してはなりません。

 日蓮正宗は「常盆・常彼岸」の宗旨です。意は、いつもお彼岸やお盆の心持ちでご先祖の供養をする、ということと、いつも変わらずに修行に励む、という二点にあります。

 三百六十五日朝夕勤行をする宗旨がほかにありますか?毎月毎月お寺にお参りして僧侶と一緒にお経を読んで修行をする宗旨がありますか?本宗のように毎日朝夕御本尊様に手を合わせ、僧俗和合してお経を読む宗旨はほかにありません。これが修行であり、その修行に成仏の功徳が具わるのです。そして、私たちが成仏の喜びを感じることによって亡き方も喜びを共有することができるのです。御文では「此の時母も仏になり給ふ」と仰せ下さいます。

 このように、日蓮正宗では、僧侶にお経を読んでもらってそれで良し、とはしません。願い出た方々もともに法華経を読み、御本尊様にお題目を唱え、一人ひとりが功徳を受け、その功徳が亡き方に届くことにより本当の成仏が実現する、と説きます。

 日蓮大聖人様は「日蓮の修行は自行化他である」と仰せです。亡き方ばかりではなく、生きている周囲の方々にもお盆の意義を伝え、共にお盆の修行に励むように勧めることが本当の修行です。暑い中ではございますが、日蓮大聖人様の仰せのままに修行に励む日蓮正宗の宗旨に、誇りと自信を持って進んでまいりましょう。 〈平成十八年七月〉

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