日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成19年2月4日 広布唱題会

開目抄

開目抄 (御書五六三頁)
文永九年二月 五一歳

開目抄 (御書五六三頁)

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人、いかにをぢぬらむ。此は釈迦・多宝・十方の諸仏の未来日本国、当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみともみるべし


【罪障消滅の修行】

 日蓮大聖人様は、当抄御述作の前年、文永八年十月末に佐渡にお着きになり、初めての冬に「開目抄」をお認めになられました。雪が膝の上まで積もっていた、と仰せの御書もありますように厳しい環境の中での日々でした。しかし、ご心中は末法の御本仏として、
「南無妙法蓮華経と唱へて日本国の男女をみちびかん」(『諸法実相抄』・六六八頁)
との大慈大悲であられたのです。大聖人様にとって、佐渡の御流罪は「必然」であり、法華経身読の上からはさけて通ることのできない出来事なのですが、門下には疑念をいだく者が少なくありませんでした。そのような門下に対して留めおかれた重要な御文が当抄です。

「去年九月十二日子丑の時」とは、竜の口の首の座を意味します。
「此は魂魄佐土の国にいたりて」と述べられ、竜の口で凡夫の身から久遠の御本仏としての御姿を顕わされたことをこのように仰せになります。「魂魄」を辞書で引きますと、〈魂は心をつかさどり、魄は体をつかさどるたましい、死者の霊魂〉とあります。要するに、亡くなった人の身と心のことです。つまり、ここで大聖人様は凡身の日蓮から末法の御本仏としてのお姿に変わられたことをこのように仰せになるのです。ですから、大聖人様の御生涯の上から竜の口は特別な意味がある、と拝さなくてはならないのです。「不思議」を顕される御文です。

 「をそろしくてをそろしからず」の御文を日寛上人は、「恐ろしいとは濁世であるから多くの恐ろしいことがある。そのような悪世にあっても、法華経の行者であることが定まっている者は身命を惜しむよりも佛道を成ずることが叶わないことを惜しむ精神があるから恐ろしいことはない」との意であり、「日蓮大聖人様がご心中を顕されたお言葉である」と御指南下さっております。

 「みん人、いかにをぢぬらむ」は、大聖人様の信仰をしていながら、大聖人様が難に値うお姿を見て、恐れの心に支配され、御法門に不審を抱き退転をする人のことを指しています。

 「当世をうつし給ふ明鏡なり」は、経文に説かれていることがそのまま日蓮大聖人様の御身の上に顕わしていることを「明鏡」と仰せです。大聖人様の御姿を拝すれば、末法悪世であると説かれた経文のごとくであり、さらに、経文に説かれたように修行される大聖人様が末法の法華経の行者であることが鮮明になる、ということです。

 当抄の結びで、
「日蓮が流罪は今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には大楽をうくべければ大いに悦ばし」
と仰せになります。大聖人様の御修行は、経文に説かれている通りであるから、罪障消滅は間違いのないことであると教えてくださるのです。今の苦しみは未来の楽しみ、と捉え明るく楽しく日々を過ごす心持ちに大きな福が集まってきます。

 辛いこと 苦しいときには、大聖人様の佐渡を思い浮かべましょう。その心に、御本仏の励ましが届くのです。寒さに負けず大法流布にご精進を。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺