日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成19年5月13日 御報恩御講

上野殿後家尼御返事

上野殿後家尼御返事 (御書三三七頁)
文永二年七月一一日 四四歳

上野殿後家尼御返事 (御書三三七頁)

天台云はく「従藍而青」云云。此の釈の心はあいは葉のときよりも、なをそむればいよいよあをし。法華経はあいのごとし。修行のふかきはいよいよあをきがごとし


【意訳】

天台大師の摩訶止觀には「藍よりしてしかも青し」と説かれている。この文の意味は、藍染めの布は繰り返し繰り返し染めることにより、もとの葉の色よりも青くなる、ということである。法華経の教えも藍染めの原理と同じで、御本尊様を根本にした修行を繰り返すことによって功徳の色が益々濃くなるのである。


【解説】

「従藍而青」は天台大師が、中国の思想家である荀子の言葉を引用して示されているもので、摩訶止觀に説かれている。止観での意は、師にしたがって修行に励むことによってその教えが命の中に染みこんでゆくことを述べたものである。

 私たちも、日蓮大聖人様、日興上人様、そして代々の御法主上人を師と仰いで、その教えに素直に従い、修行に励むことにより大きな功徳を受けられるのである。次の御文も同じような御指南である。
『乙御前御消息』
「青き事は藍より出でたれどもかさぬれば藍よりも色まさる。同じ法華経にてはをはすれども、志をかさぬれば他人よりも色まさり利生もあるべきなり」 (新編御書・八九七頁)

 ここでは、同じように御本尊様のもとで修行に励んでいても、より強く志を立てて修行を重ねることにより功徳を受けることができる、と仰せになり、一歩進んだ修行の大切さを教えてくださっている。


【参考】

〔荀子(勧学)〕藍染めの青は植物の藍の葉を原料としながらもその藍葉よりも青い、との意。これを師のもとで修行に励んだ弟子が、師よりも立派になったことにたとえる。「出藍の誉れ」という言葉もある。

 荀子は中国、戦国時代の思想書。二〇巻からなる。荀子著。成立年代未詳。礼と義を中心として人間のあり方を重視して「性悪説」と立てた。韓非子などに受け継がれ、法家思想を生む元になった。

 当抄は文永二年に鎌倉でお認めになられ上野殿後家尼に与えられたものです。


南条時光伝

○南条家
本領は伊豆の国南条。この地は、平治の乱で破れた源義朝の嫡子であった頼朝が流罪となり、その監視役を平家から命ぜられた北条時政の領地であった。

頼朝はこの地で時政の娘政子と結婚し、北条家の後ろ盾を得たことにより、後に鎌倉幕府を開くことができた。

南条家はその北条家の一門として古くから栄えていたが、源頼朝が挙兵するにあたって与力をし少なからず功績があったと思われる。

鎌倉幕府が成立した後は、ご家人として重用され、時光殿の父親である兵衛七郎が富士上野郷の地頭として派遣された。上野郷の地頭であるから「上野殿」と称されるようになった。上野郷には総本山のお膝元である「上条」、妙蓮寺がある「下条」、白糸の滝がある「狩宿」などがあり、北条一門の古くからの領地でもあった。

○地頭の役目として広く知られていることに、領内の農業生産を督励しかつ年貢を徴収する権利を持ち、また領内の治安を維持するために警察権や裁判権を持つ領主としての立場がある。この地頭は鎌倉幕府にあっては幕府が直接任命し罷免も行った。つまり、領主と言っても、幕府の出先機関の役人としての性格が濃厚である。領内の任務の他に、御所を護る「上番役」や鎌倉の治安にあたる「警固番」があり、一年の内三ヶ月間は鎌倉か京都にいたようである。

○地頭職は今風に言えば中間管理職。領地には地下人がおり、種々の仕事に就いている地下人の監督。幕府からは納税を始めとする仕事を命じられている

○南条家の入信は、この様な番役で鎌倉に出仕をしていたときであると考えられる。先ず始めに時光の父兵尉七郎が鎌倉で日蓮大聖人の信仰を始めた。とはいえ、鎌倉幕府のご家人であり、しかも、幕府領の地頭職にある南条兵衛七郎が日蓮大聖人様の信仰をするにはそれなりの決意がなければ叶うことではなかった。

○南条兵衛七郎の病気
ところが、文永元年の暮れに、兵衛七郎は重い病におかされてしまった。その病気見舞いと励ましのお手紙を大聖人様はお認めになる。
文永元年十二月十三日『南条兵衛七郎御書』【慰労書】(新編御書・三二一頁)

この御文で、念仏の信仰を改めて法華経の信仰をするようになった兵衛七郎にたいして、如何なることがあろうとも法華経を捨ててはならない、法華経を捨てるようになれば無間地獄に堕ちることになると御指南をされます。そして
「大悪魔は貴き僧となり、父母兄弟等につきて人の後世をばさうるなり。いかに申すとも法華経を捨てよとたばかりげに候はんをば御用ひあるべからず」
と、法華経の信仰を貫くことの難しさを教えて下さる。

しかし、末法の法華経の行者である日蓮の弟子ならば必ず成仏が叶うから心配はないと励ましておられる。このお手紙により、南条家の人々は念仏信仰をきっぱりと打ち捨て、日蓮大聖人の教えて下さる法華経の信仰にさらに精進するようになった。

ときには、病体をおして兵衛七郎は折伏に娘の嫁ぎ先である重須地頭である石河家にもおもむいたであろう。また、後家尼の実家である松野家にも折伏の足を運び、入信に導いている。その時には、必ず長男の七郎太郎や次男の時光を供として連れて行った。そして、大聖人様が御指南下さるとおりに、「念仏無間、禅天魔・律国賊、真言亡国」を諄々と説き聞かせ、一族をことごとく日蓮大聖人様の信者にしたのである。

病が進んでからは、病床の父兵衛七郎の枕元で、母尼を中心に、九人の子供たちが南無妙法蓮華経と唱え、父の病気平癒を真剣に祈ったであろうことは想像に難くない。

本人の強い信心と、家族の祈りと看病のかいがあって、このお手紙をいただいてより三ヶ月の命をながらえ、文永二年三月八日に兵衛七郎は亡くなります。亡くなったときの年齢はハッキリとはつたえられておりませんが、若くしての臨終であったことは間違いない。

○富士上野に墓参
兵衛七郎が亡くなったとの連絡を受けた大聖人様は、鎌倉から富士上野の墓所まで足を運ばれ、墓前で読経唱題をされ追善供養をされたことが
「さては故南条殿は久しきことに候はざりしかども、よろず事にふれて、なつかしき心ありしかば、乃至 はかをば見候ひぬ」
との御文からわかる。

○母尼を励まされる日蓮大聖人様の温かいお言葉
このとき、時光は七歳でした。お腹の中に一人、その他八の子供を抱え、残された母尼の心境はいかばかりであったであろうか。
そのような中で認められたお手紙が、
「抑上野殿死去の後はおとずれ冥途より候やらん、きかまほしくおぼへ候。ただしあるべしともおぼへず」
とう御文で始まる、『上野殿後家尼御返事』である。この御文で「いかにもいかにも・・六識にせよと教え給ふもこれなり」と仰せになります。亡くなられたご主人は法華経の信仰をして臨終を迎えたのであるから「即身成仏は疑いなし」と慰められ、一方では「追善供養をすること」の大切さを御教示される。また、「従藍而青」の御指南はその後の南条時光のことを予測したものと思えてならない。

○成長した時光
さて、この時期、大聖人様は竜の口法難から佐渡ご流罪へと大変に厳しい時をすごされており、南条家とのご縁も少し遠くなっていたが、文永十一年五月に身延へ入山されるや、時をうつさず母尼は時光兄弟を使として大聖人様のもとに送った。そして、九箇年の間に、逞しくも純粋な青年信徒に成長した時光殿の姿を見た大聖人様は、
『南条後家尼御前御返事』(新編御書・七四一頁)
「かまくらにてかりそめの御事とこそをもひまいらせ候ひしに、をもひわすれさせ給はざりける事申すばかりなし。こうへのどのだにもをはせしかば、つねに申しうけ給はりなんとなげきをもひ候つるに、をんかたみに御みをわかくしてとゞめをかれけるか。すがたのたがわせ給はぬに、御心さえにられける事いうばかりなし。法華経にて仏にならせ給ひて候とうけ給はりて、御はかにまいりて候ひしなり。又この御心ざし申すばかりなし。今年のけかちにはじめたる山中に、木のもとにこのはうちしきたるやうなるすみか、をもひやらせ給へ。このほどよみ候御経の一分をことのへ廻向しまいらせ候。あわれ人はよき子はもつべかりけるものかなと、なみだかきあえずこそ候へ。妙荘厳王は二子にみちびかる。かの王は悪人なり。こうえのどのは善人なり。かれにはにるべくもなし。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」
と仰せになり、時光を讃える書を母尼に与えられた。

○時光殿の強情な信仰は母上野尼の教えによる
時光の成長には、母尼の薫育が大きかったのです。後年になるが母尼が頂いた『尼御前御返事』には
「抑御消息を見候へば、尼御前の慈父故松野六郎左衛門入道殿の忌日と云云。子息多ければ孝養まちまちなり。然れども必ず法華経に非ざれば謗法」(新編御書一五七四頁)
とある。この御文から、母尼が大聖人様の教えをしっかりと拝し、謗法の意義を的確に理解し、亡き親の追善供養を大聖人様に願い出るという実践をされていたことが知れる。

つまり、時光が後年大聖人様の信仰を強盛に貫くもとになったのは、若くして亡くなりはしましたが、それまでの念仏の信仰を潔く投げ捨てて法華経の信仰を持ち、さらに、病身を押して親戚縁者の折伏に奔走した父の姿であり、また、夫を早く亡くしたとはいえ、日蓮大聖人の教えこそ、末法の衆生が成仏することの出来る唯一の正法であると確信し実践した母尼の薫陶にあると言える。

若くして世を去った兵衛七郎ではあったが、残された婦人や子供たちが法華経の信仰を継ぎ、総本山を建立寄進され、世界中の人々、未来永遠に南条家・時光とその名を讃えられることを考えれば、人生の長い短いで幸不幸を計ることは出来ない。後年の南条時光の信仰は父の病気を通して鍛えられたものである。日蓮大聖人様の信仰のすばらしさを両親の姿から学んだのである。

ご参詣の皆様の中にも、ご自身ではなくとも友人や知人に、若くして親御さんと離別した方がおられるかも知れないが、仮りにそのような境界にあったとすれば、ご自身の上に南条時光殿の信心を引き当てようではないか。南条家の人々は、信仰の力により、逆境を見事に克服し、永遠の幸福へと転換した大いなる手本となる。

今月一日は南条時光の祥月命日忌である。信心の先輩である南条家の人々に負けないように精進をしようではないか。

来月は『佐渡御書』です。御報恩に励みもって功徳を積んでまいりましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺