日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成19年5月1日 永代経

臨終の心懸け


「臨終の心懸け」 日寛上人の御教え(臨終用心抄より)

一、二種類の臨終 多念の臨終と刹那の臨終

日寛上人は、臨終には多年の臨終と刹那の臨終があることを御指南です。以下、臨終用心抄にそって御指南を拝します。多年の臨終とは、今日この時に臨終を迎えても何ら差し支えることはない、という心持ちのことで、歩く時にも座っているときにも心にお題目を唱えていることをいうのであり、刹那の臨終は、今生の最後のことで、人生の中で最も大切なことである、と仰せです。刹那臨終の時の一念は、これまで過ごしてきた人生の全てが現れます。そのために、日頃からの心懸けが大事であり、常にお題目を唱えることが大切なのであると御指南下さいます。次に、その臨終にあたっての心構えが示されております。

一、臨終の時心乱るるに三の子細があるとされます。

その原因として次の三種を挙げておられます。

一には、断末魔の苦しみが襲ってくるからです。断末魔の時には、風が体中に起こり、全身の骨と肉がバラバラになるような痛みに襲われます。正法念経というお経文には、臨終の時には体中を千の尖った刀で突き刺すような痛みがある。もし善い行いがあれば苦悩は多くはないが、他人の悪口を言ったり、譏ったりするようなことを好むような人は、言ったことは事実でも事実ではなくとも、人の心を傷つけたのであるからその報いを自身で受けるようになります。

二には魔の所以。沙石集という平安時代に書かれた物語には、念仏宗の者が、病に罹って臨終が近いと思い、念仏を唱えたところ、その妻が私を置いて先に行くとは何事であるか、と怒り狂って首に手をかけ引きずり倒してしまった。念仏の者はよき臨終を迎えようと思い、立ち上がってまた念仏を唱えようとするがまた引き倒されてしまった。このように念仏のものでさえ、臨終には障魔が襲ってくるのであるから、まして正法の行者である私たちに障魔が襲わないわけがない。何故ならば、正法の者には必ず過去の罪障を消滅して成仏する功徳があるからである。

三には妻子従類の歎きの声により、財宝等への執着が生まれるからです。

一生涯正法を持っている者でも、臨終に際しては残る妻が哀れで愛着の心がおこるのです。その執着の心が、妻の鼻に住む虫と生まれる結果となるのです。また、盧山寺の明道上人という貴い僧侶は、法華経を解説した三大部の書物に執着があり、その結果聖教の上に小いさな蛇となって生まれ変わった、とあります。また、ある長者は、臨終に際して所持していた金の釜を惜しいと思ったことにより大蛇に生まれ変わり、釜の上にドグロを巻いて住み着きました。
又ある律師は、臨終の時に天井裏のお金のことを思い出し、その結果、蛇に生まれ変わってお金の中に住むようになりました。その律師は、信徒の夢の中に現れて、自分はこのようにして今蛇となっている、どうか天井裏にある二十貫文のお金を仏法僧の三宝に供養して下さい、と願いました。信徒が天井裏を見ると、夢で見たように、お金の中に蛇が住み着いていたので、哀れ思い法華経をもって供養したところ、また夢に現れて、成仏することができた、とあります。したがって、臨終の時には妻子や財宝に執着してはなりません。

そこで、日寛上人は、断末魔の時に心が乱れないための心構えとして三つ示されます。

一つには、人の心を傷つけないことです。これを心がけなくてはなりません。

二つには、私たちの体は元々が仮りに和合したものなのであると知ることです。臨終は仮りの和合がもとの姿に返ることなのですから驚くことはないのです。驚くことがなければ心も乱れません。私たちの生命は宇宙に帰るのですからそのことを覚ればなにも恐れることはありません。それを知ることにより断末魔の苦しみから離れることができます。

三つ目は、常に御本尊様と私たちは一体であると心に留めお題目を唱えることです。

そして、御書を引用されております。
『総勘文抄』
「所詮己心と仏身と一なりと観ずれば速やかに仏に成るなり」(一四二〇)
『如説修行抄』
「縦ひ頚をばのこぎりにて引き切り、どうをばひしほこを以てつゝき、足にはほだしを打ってきりを以てもむとも、命のかよはんきはゝ南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にゝしぬるならば、釈迦・多宝・十方の諸仏、霊山会上にして御契りの約束なれば、須臾の程に飛び来たりて手を取りてかたに引き懸けて霊山へはしり給はゞ、二聖・二天・十羅刹女・受持者をうごの諸天善神は、天蓋を指し幡を上げて我等を守護して慥かに寂光の宝刹へ送り給ふべきなり。あらうれしや、あらうれしや。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経」(六七四)
です。また、正法の行者の身の上にのみ魔が現れることを『治病抄』を示されて御指南されます。
「止観に三障四魔と申すは権経を行ずる行人の障りにはあらず。今日蓮が時具に起これり。又天台・伝教等の時の三障四魔よりも、いまひとしをまさりたり。一念三千の観法に二あり。一には理、二には事なり。天台・伝教等の御時には理なり。今は事なり。観念すでに勝る故に、大難又色まさる。彼は迹門の一念三千、此は本門の一念三千なり。天地はるかに殊なりことなりと、御臨終の御時は御心へ有るべく候」(『治病抄』一二三九) 

さらにまた、財産等執着から離れる心構えとして、次のように仰せです。これは遺言をきちっとしなさいというお言葉です。

「財宝の事は在家出家ともに存生の時に書き置く可き事也、されば在家は財宝に意懸けり。とやせん角やせんと思ふて心乱るる也、出家は袈裟・衣・聖教等、彼れに譲り此れに譲らんと思ふて心乱る、依て慥に書き記す可き也。此等の妄念有る可からず、然れば唯後世の事のみ成らんと存す可き事肝心也云云」

                                  (来月に続きます)  以上

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