日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成19年7月8日 御報恩御講拝読御書

一生成仏抄

一生成仏抄 (新編御書四六頁・御書全集三八三頁)
建長七年 三四歳

一生成仏抄 (御書四六頁)

 然る間仏の名を唱へ、経巻をよみ、華を散らし、香をひねるまでも、皆我が一念に納めたる功徳善根なりと 信心を取るべきなり。


【通解】

 「仏の名を唱へ」とは御本尊様に向かって南無妙法蓮華経とお題目を唱えること。「経巻をよみ」とは朝夕の勤行のこと。「華を散らし」とは散華のことをいうが、私たちの立場では御本尊様にお樒を供えること。「香をひねる」とは本来はお焼香の意味だが、御本尊様に線香をお供えすることである。

 このように、信心修行に励むならば「我が一念に納めたる功徳善根」であるとされる。つまり、御本尊様に向かって勤行をし、お題目を唱へる修行、また、お樒をお供えしたりお線香をお供えすることは、私たち一人ひとりが命の中に功徳善根を積むことなのである、ということです。そして「信心を取るべきなり」、すなわち、日蓮の教えの通りに信心をしなさい、と仰せになります。


 『阿仏房御書』では
「多宝如来の宝塔を供養し給ふかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給ふ。我が身又三身即一の本覚の如来なり。かく信じ給ひて南無妙法蓮華経と唱へ給へ」(七九三頁)
と仰せになっています。多宝如来の宝塔は御本尊様のことであり、御本尊様を大切にすることは我が身を大切にすることであり、それはとりもなおさず我が身が仏と成ることなのである、との御指南です。『一生成仏抄』での仰せを、具体的に教えて下さるものです。

 『一生成仏抄』は建長七年(一二五五年)に大聖人様が三十四歳の時にお認めになった御書です。立宗宣言をされた二年後、大聖人様は鎌倉の松葉ケ谷(まつばがやつ)に草庵を構えられ、折伏弘教のまっただ中でした。四条金吾や工藤吉隆、また池上兄弟の入信は翌年ですから、鎌倉中で、「法華折伏・破権門理」(『如説修行抄』の御文・法華経は他の経文のように摂受の教えではなく、折伏を根本にした教えであり、爾前権教で説かれた教を打ち破るものである、という天台の法華玄義の文を大聖人様が引用されている)の旗を掲げて獅子吼されていたお姿が目に浮かびます。当時の鎌倉では、大風がしばしば吹き荒れ、それによって幕府や寺社の建物ばかりではなく、庶民の家屋の多くが崩壊したことが記録に残されております。また、度重なる洪水により人々は住み家を追われ苦しみの中で一日一日の生活を営んでいました。その上に、飢饉や疫病が重なり、病人や死人がそこら中にあふれておりました。そのような悲惨な状況の中に身を置かれていた大聖人様は、
@なぜこのような苦しみを受けなければならないのか、
Aその苦しみを受けるのは一人ひとりの責任なのか、
Bこのような苦しみから逃れる方法はないのか、
等々のことを、全ての経文に照らし合わせて検証されたのです。そして、結論として『立正安国論』を顕され、時の主権者であった鎌倉幕府五代執権・北条時頼を諫曉したのです。

 当抄は、その安国論を顕される五年前の書です。当抄の冒頭で大聖人様は、衆生の生命の中には、教えられたり与えられたりすることなく、「衆生本有の妙理」といって、元々仏と同じ性分を具えている、と仰せになります。そして、その生命の中にある仏と同じ性分を「妙法蓮華経」であるとご教示になります。さらに、「妙法蓮華経」とお題目を唱えることは、私たち一人ひとりの生命の中に本来具わっている仏様と同じ性分を観じることになる、と示されるのです。

 さらに、この妙については、「我が一念の心不思議なる処を妙とはいうなり」と仰せになり、妙は不思議な心のことをいうのであり、不思議な心という意味は、心も言葉も言い表すことのできないもので、仮りに有るというのであれば、どのような色をしているのか、どのような質(かたち)なのか、そして、それはどこにあるのか、また、無いというのであれば、実際に働く心の動きをどのように説明すればよいのか、有るようでない、しかし無いようである、実に不思議なものではないか、と仰せになり、その心を不思議なものでありそれを妙と名付けるのである、と仰せになっております。

 善いことも悪いことも全てが私たちの心の中から起こるものであり、そのことを妙と名付け、それを教える法を妙法といい、末法には妙法の教えを「南無妙法蓮華経」の御本尊として顕してくださったのです。ですから、このことを信じて、南無妙法蓮華経とお題目を唱えることにより、一生成仏の功徳を受けることができるのである、と御指南されるのが当抄です。

 「一生成仏」と「即身成仏」の言葉の違いを申し上げれば、一生成仏は修行の期間にあてはめて用いる言葉です。今世一生の間に成仏の功徳を受けてゆくことです。これは、爾前経の「歴劫修行」に対する言葉です。歴劫修行の歴は歴史の歴です。これは、次々に、経過する等の意味があります。劫は百千万億劫という経文でもおわかりのように時間のことです。ですから、長い時間をかけて繰り返し修行をする、という意味が「歴劫修行」なのです。爾前経の菩薩たちが、生死生死の繰り返しの中で、長い長い時間をかけて修行をしたことをいいます。ところが、このように修行に励んでも爾前の経々では仏になることはできませんでした。

 しかし、伝教大師は、法華経の提婆達多品第十二の中で説かれる竜女の成仏を挙げて、「能化所化倶に歴劫なし。妙法の経力を以って即身に成仏し」と示され、法華経の教えは、爾前権教とは違い生死生死を繰り返し、その間に長く苦しい修行を経なくとも、妙法蓮華経ととなえる修行によって成仏の功徳を受けることが叶う、と教えています。ですから、今世一生の間に成仏の功徳を受けられる妙法蓮華経の教えを明らかにする、という意味から『一生成仏抄』という名前が当抄には付けられたのです。

 次ぎに、即身成仏ですが、これもまた法華経の提婆達多品第十二の中で説かれることです。この中では畜生の身である竜女がその身を改めることなく仏になることができた、ということを教えています。つまり、その身そのままで仏に成る、ということですから「即身成仏」というのです。先の一生成仏が修行の時間の上からの言葉であったのに対して、即身成仏は修行をする身にあてはめての言葉である、ということがおわかりいただけると思います。私たちが凡夫の姿そのままで仏と成ることができる、これが即身成仏です。ですから、「一生成仏」といっても「即身成仏」といっても同じ意味なのです。

 この成仏について、当抄では「衆生本有の妙理を観ず」ことが成仏でありそのために「妙法蓮華経」と唱えることが大切であると示されております。この妙理を観ずることを『観心本尊抄』では「観心とは我が己心を観じて十法界を見る。これを観心と云なり」(六四六頁)と示されます。「衆生本有の妙理を観ずる」ことも「我が己心を観ずる」ことも同じ意味です。大聖人様が、あなたの心の中に仏様のお心がある、ということを知りなさい、そうすればあなたも私も仏なんです。このことを知ることが悟りであり仏であり迷っているのが衆生である、ということを、
「迷う時は衆生と名付け、悟る時をば仏と名付けたり」(四六頁・後ろから四行目)
とお示しです。日寛上人は
「『観心』というは、我等衆生、本尊を信じ奉って南無妙法蓮華経と唱うる義なり。豈信力・行力に非ずや。信力・行力・仏力・法力、既にこれ具足す」(文段集二三八頁)
と仰せになり、「衆生本有の妙理を観ず」ることも「我が己心を観ずる」ことも、御本尊様を信じてお題目を唱えることにより叶えられると御指南下さっております。

 このような教えが法華経の教えであり、念仏のように、西方極楽浄土の阿弥陀仏の救済を受けて仏に成る、というものや、禅宗のように、坐禅をすることにより悟りを開くことを目指すのではないと示されるのです。そして、妙法を唱えることを表に立てて折伏を展開されました。

 しかし、ここで私たちが注意をしなくてはならないことがあります。それは、「生命の中にある不思議なことを観じることが成仏である」と仰せになっているのだから、自己の中に仏があり、その仏を拝むことによって成仏が叶う、という考えに陥ってはならない、ということです。例えば、『日女御前御返事』の
「此の御本尊全く余所(よそ)に求る事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」
をもって、私たちの心の中にご本尊があるのだから胸中のご本尊を拝むことにより成仏が叶う、ともっともらしいことをいいます。このことは現在の創価学会がよくいっております。その根底には、本門戒壇の大御本尊様から会員を引き離すための悪質な心があります。実は昭和五十二年頃の「第一回創価学会問題」の時にも同じようなことをいって、登山をしなくてもよいなどといっておりました。そのときには、総本山六十六世日達上人から、次のような破折を受け一度は引っ込めた経緯があります。

「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合(きょうちみょうごう)して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」 (日達上人全集第二輯五巻六〇〇頁)

明らかな御指南です。

 日寛上人は
「凡そ当家の観心はこれ自力の観心に非ず。方に本尊の徳用に由って即ち観心の義を成ず」(文段集二四五頁)
と明確に御指南をされております。今日のことを予測されていたのでしょう。当家とは日蓮正宗の信仰をしている私たちのことです。日寛上人の御本尊を真似て作った「池田大作作の『ニセ本尊』」を拝んでいる者たちへの警鐘です。この日寛上人の御指南をよく拝し、誤った御本尊様への考えを改めなければ地獄界の苦しみを受けることになります。そのことを折伏の時に教えましょう。

 「観心」とは『一生成仏抄』の「衆生本有の妙理を観ず」ことであり、『観心本尊抄』の「観心とは我が己心を観じて十法界を見る。これを観心と云なり」ということです。

 自力とは、自分だけの力、私だけの努力という意味です。ですから、日寛上人の御指南は、『一生成仏抄』や『観心本尊抄』で日蓮大聖人が示される私たちの成仏は、私たちの力によってのみ成し遂げることができるのではなく、御本尊様のお力、すなわち仏力・法力によって初めて叶えられるのである、と仰せであることがおわかりになると思います。

 ここが日蓮正宗の信仰で最も大切なところです。私たちは平等に幸福になることができます。世界中の人たちが何不自由のない日々をおくることができるようになる「仏性」をもっているのです。ところが、正法時代や像法時代の衆生とは違い、自分たちの力だけでは幸せをつかむことは到底できない末法の凡夫なのです。そこで、自分の力だけではどうすることもできない私たちのために、日蓮大聖人様が末法に御出現あそばされ、御本尊様を建立下さったのです。この御本尊様に手を合わせお題目を唱えることが「己心を観じ」ることであり「衆生本有の妙理を観ずる」ことなのです。ですから、皆さまがこうして本門戒壇の大御本尊様を第一の的として、日々お題目を唱へ修行に励んでいることは成仏の道を間違いなく歩んでいることなのです。ここが日蓮正宗の信心で最も大切なところであり、日寛上人の文段での御指南の意もここにあります。

 立正安国論正義顕揚七五〇年の大きな節目まで残すところ七四〇日余となりました。この好機を逸することなく自行化他の信心に励まなくては来世に悔いを残すことになります。六十七世日顕上人・六十八世日如上人が、「来るべき立正安国論正義顕揚七五〇年に名実ともに地涌倍増をなさしめ給え」と御祈念をし、一人ひとりが大きな功徳を受けていこうではないか、と御指南下さる意を心に深く刻み、暑い夏こそ我が身を鍛える好機であると決意し共どもに前に進んでまいりましょう。

以上

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日蓮正宗向陽山佛乗寺