日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成19年9月9日 御報恩御講拝読御書

報恩抄

報恩抄 (新編御書一〇〇六頁)
建治二年七月二一日 五五歳

報恩抄 (御書一〇〇六頁)

法華経の文には已説・今説・当説と申して、此の法華経は前と並びとの経々に勝れたるのみならず、後に説かん経々にも勝るべしと仏定め給ふ


【御述作の縁由】

 『報恩抄』は、建治二年(一二七六年)三月十六日に、大聖人様の旧師である道善房の死去に際して、その報恩のために、同年七月二十一日にお認めになられたものです。

 大聖人様から折伏を受けていた道善房は、本心では法華経の信仰の正しさを知っていながら、世間の目を恐れて念仏から改宗することが出来ませんでした。しかし大聖人様にとっては、出家の師匠であり、その恩をお忘れになることは決してありませんでした。道善房の死去の知らせに接した大聖人様はそのときの心情を次のように述べられております。
「彼の人の御死去ときくには火にも入り、水にも沈み、はしりたちてもゆひて、御はかをもたゝいて経をも一巻読誦せんとこそをもへども、賢人のならひ心には遁世とはをもはねども、人は遁世とこそをもうらんに、ゆへもなくはしり出づるならば末もとをらずと人をもうべし。さればいかにをもうとも、まいるべきにあらず」(新編一〇三一頁)
と。現代語に訳しますと、道善房が死去したことを聞き、たとえ水の中や火の中に飛び込んでも走って行き、墓をたたいてお経を読みたいと思ったが、賢人の習いもあり、自分では遁世などと思っていないが人は遁世と思っているであろうから、理由もなく走ってゆくなら自らが決めたことを最後まで貫き通すことの出来ないものであると、思うであろう。だから行くわけにはいかない、となります。大聖人様の師匠を思う気持ちに胸を打たれます。そこで、清澄寺にいる浄顕房・義浄房のもとに当抄を送られ、故道善房の墓前と嵩が森の頂で読み上げるように申しつけられたのです。


【題号に込められた意味】

『報恩抄』の題号について、日寛上人は、『報恩抄文段』で、
 「此の抄の題号に即ち二意を含む、所謂通別なり、通は謂く四恩報謝の報恩抄、別は謂く師恩報謝の報恩抄なり」(富要四ー三五七頁)
と仰せです。つまり、当抄は一往は父母の恩・師匠の恩・三宝の恩・国王の恩の四恩を報ずることを示されているが、再往は師匠の恩を報ずるために認められたものである、とのご教示です。


【報恩】

 当抄の冒頭で
 「夫老狐は塚をあとにせず、白亀は毛宝が恩をほうず。畜生すらかくのごとし、いわうや人倫をや。(中略)仏教をならはん者の父母・師匠・国恩をわするべしや」 (新編九九九頁)
と仰せになります。恩を忘れずに恩に報いてゆくことは、畜生界に生を受けている動物であっても実践しているぐらいですから、人間界の私たちとっては当たり前のことでなければなりません。まして、仏の道を求めるのであればなおさらです、という御指南です。

 第二次世界大戦中の日本では、「報国」の言葉が悪用され、貴い多くの命が奪われました。その反動で、報恩とか孝養の考えは、言葉でだけでも、頭から否定されるような風潮にあります。しかし、ここにもありますように、仏法を学ぶものは師・父母・国の恩を忘れてはなりません。間違った宗教が根底にある「報国」ではなく、『立正安国論』の精神を根底にした「報国」の念を忘れてはなりません。何故ならば、私たちと国土とは切っても切り離すことの出来ない関係だからです。

 大聖人様は「報恩」ことに師恩を報ずるには、いったんは師に背くようなことがあったとしても、仏の教えを学び真実の知恵を得ることが大切であり、そのような身になって初めて真の報恩になることをご教示です。これは、私たちの仏道修行のあり方を示されるものであり、世間のことや情に執われていたならば仏道を成じることは叶わないことを、旧師道善房との関係から教えて下さるものです。


【拝読の要点】

 四恩を報ずるため仏法を習い究める修行に励むことが大切であるが、しかし、それぞれの宗派宗派で自らの正当性を主張しており、どの教えが仏の本意であるかを明らかにするためには、各宗派の開祖たちの説いていることを用いるのではなく、お経文を根本にしてその上で正邪を判断してゆくことが肝心である、と仏法を習得するための姿勢を教えて下さっています。そのようにして一切経を見るならば、法華経こそが最も勝れた教えであることは明らかであり、さらに法華経の中でも肝心なのは南無妙法蓮華経であることを御指南されます。


【今月の御文】
 
 今月の御文はこのような諸経と法華経の正邪を判断する上で大切な御文です。先ず「法華経の文」とあります。これは、法華経法師品第十のことです。法華経は序品第一から普賢菩薩勧発品二十八まであります。その他に法華経の開経として、無量義経、さらに結経として観普賢菩薩行法経があります。その中の法師品で「已に説き、今説き、当に説かん。しかもその中においてこの法華経もっともこれ難信難解なり」と説かれております。このお経文から、法華経が諸経の中でもっとも難しく理解しがたい教えであることがわかります。またそれは、法華経こそが最も勝れた教えである、ということなのです。天台大師は法華経の一文一文を解釈した「法華文句」という書物の中で、「已に説いた教えは法華経以前の教えを指し、今説く教えとは無量義経を指し、当に説く(これから説く)教えとは涅槃経のことであり、法華経はこれらの三種類の経文を超えたものである」と解釈をしております。このことを、「三説を超過した教えが法華経である」という言い方もします。

 大聖人様は法師品のこのお経文から、法華経こそがもっとも勝れた教えであり、法華経に仏様の本懷が説かれている、そして、本懷を説かれている故に、信じ難く理解をすることが難しいのであると教えて下さるのです。法華経以外の教えは、人々の機根(能力)にあわせて説かれたものですから、易しい教えです。ただし、お経文では易しいということは、低い教えということになります。

 そして忘れてはならないことは、「仏定め給ふ」というお言葉です。これは「日蓮が勝手にいっていることではありませんぞ」ということです。このように、大聖人様は常にお経文を証拠として正邪を判別する態度です。 当抄にはさらに、
 「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ」(新編一〇三六頁)
と、仰せになり、大聖人様のご慈悲が広大であるがゆえに、三大秘法の南無妙法蓮華経は時間的にも空間的にもすべての衆生を救う教えである、と明らかに述べられております。

 また当抄の最後に、
 「されば花は根にかへり、真味は土にとゞまる。此の功徳は故道善房の聖霊の御身にあつまるべし」(新編一〇三七頁)
と仰せになり、世界中の人たちが幸福になるために、命を惜しまずに三大秘法を広宣流布する日蓮の修行に具わる功徳は、すべて師匠である故道善房の御身に集まります、と南無妙法蓮華経と唱へて折伏行に励む功徳の大きさを教えて下さいます。道善房は残念ながら現世では成仏を遂げることは出来ませんでしたが、大聖人様というお弟子を持った功徳で、来世では必ず仏果を得ることができるでありましょう。

 親を折伏することは難しいものです。先祖からの宗教があって、改宗をするとなると皆二の足を踏みます。しかし、心から親の幸せ、先祖の成仏を願うのであれば、正しい信仰に導かなくてはなりません。特に、道善房のように、世間体や周囲の目を気にする小心な心の持ち主は素直に信仰にはいることは出来ないかも知れませんが、こゝで大聖人様が御指南下さるように、私たちも三大秘法の教えを広宣流布する修行に励むならば、その功徳は必ず父母やご先祖の身に集まるのです。それこそ真の孝養であり報恩であることを銘記し折伏行に励むことが日蓮大聖人様の信仰です。またそのような修行に、我が身も大きな功徳を受けることが出来るのです。

 まだまだ暑い日が続くようですが、御法のため、ご自身のため、親兄弟等のために精進を重ねましょう。

以上

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