日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成19年10月13日 御報恩御講拝読御書

立正安国論

立正安国論 (新編御書二四四頁)
文応元年七月一六日 三九歳

立正安国論 (御書二四四頁)

謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん


 この立正安国論の中での、「謗法の人」とは法然のことを指しております。法然は念仏宗の開祖で、「選擇本願念仏集」という書物を書き、その中で、「捨・閉・閣・抛(しゃ・へい・かく・ほう)」を説きました。「捨・閉・閣・抛」とは、念仏の教え以外は、全て捨てよ、閉じよ、閣しおけ、抛てということです。ようするに、念仏宗以外の全ての宗派を否定するものです。この法然の誤った教えが原因となり、社会が混乱をしているのである、と大聖人様は見抜かれ、立正安国論を顕されました。

 大聖人様が立正安国論をご執筆されるにあたり、駿河の国岩本にある実相寺というお寺の経蔵に入られて、一切経を閲覧されたことはよく知られておる通りです。ちなみに、そのときに、日興上人が大聖人様のお弟子になられました。日興上人は当時、四十九院というお寺で勉学に励まれておりました。富士川を挟んだ対岸にある実相寺に、高名な日蓮大聖人様が滞在されて一切経の閲覧をされている、と聞き早速実相寺に足を運ばれ、即座に大聖人様のお弟子になられたのです。師弟の縁の不思議さを感じます。大聖人様が一切経を改めて閲覧されたのは、立正安国論が大聖人様の勝手な解釈によって書かれたものではなく、経文に依て書かれたものであることを知らしめる意味もあります。その経文は、八万四千巻に及ぶといわれておりますが、それを体系的に明らかにされたのが中国に出現された天台大師です。その代表的なものに五時八教(ごじはっきょう)といわれるものがあります。五時とは、一、華厳時(けごんじ)。二、阿含時(あごんじ)。三、方等時(ほうとうじ)。四、般若時(はんにゃじ)。、五、法華・涅槃時(ほっけねはんじ)五種類です。釈尊は尼連禅河(にれんぜんが)の辺の菩提樹の下で悟りを開かれ、その後以上の次第で教えを説かれたのです。

 五時が教えを説かれた順に分類されているのに対して、八教は、教えの内容から分類した「化法の四教」と、衆生を導く形式から分類した「化儀の四教」に分けられます。化法の四教には、@蔵教・A通教・B別教・C円教があります。、また、化儀の四教には、@頓教・A漸教・B秘密教・C不定教があります。この八教を薬に譬えると、化法の四教は薬の成分であり、化儀の四教は薬の調合法や服用方法であるといえます。それでは五時の次第を順に見てまいりましょう。

 最初の華厳時は二十一日間の説法でした。これは華厳経を中心とする教えで、人々の心がどの様な状態にあるかを推し量る上から説かれたもので、高度な内容でした。

 二番目が、阿含時です。これは華厳時で推し量った衆生の心に沿って説かれたもので、仏教の初歩であり、小乗の教えが中心となっております。説かれた場所は鹿野苑(ろくやおん)というところで、十二年間の説法でした。

 三番目が方等時で、阿含時に説かれた小乗の教えに執着しそこに止まっている衆生の心を叱責し、打ち破って大乗の教えに導くために説かれました。阿弥陀経や大日経はこの時のもので、阿弥陀経を所依の教典としている念仏宗(浄土宗、浄土真宗。東西の本願寺などはここに含まれる)の立場はここです。また、大日経を依経とする真言宗もここに含まれます。これは十六年間の説法でした。

 四番目が般若時です。この時は般若経が説かれました。華厳時で心根を推し量り、阿含時で小乗を説いて仏教に導き、方等時において小乗から権大乗に導かれた衆生を、般若時においてさらに一歩真実近づけるために教えを説かれました。霊鷲山や白路地での十四年間の説法です。

 最後の五番目が法華・涅槃時です。法華は法華経のことで、釈尊が七十二歳から八十歳で入滅されるまでの八年間の説法です。釈尊は三十歳で悟りを開かれてから七十二歳までの四十二年間の教えは真実を説き顕しておらない、と自ら説かれています。それが、法華経を説かれる直前の無量義経の中にある、「四十余年未顕真実」というお経文です。「未顕」とは未だ顕さず、と読みます。ですから、これまでの教えは本当のことを説いていない、ということです。さらに、法華経の中には、「正直に方便の教えを捨てなさい」とか、「これから真実の教えを説きます」とあります。あるいは、「(法華経こそ)最高の教えである」、「(法華経こそ)第一の教えである」等の経文から釈尊の本当の心が法華経にあることが明らかなのです。

 涅槃時の涅槃は入滅のことで、釈尊が入滅をする時の一日一夜の説法です。くん(手偏に君)拾経(くんじゅうきょう)つまり、落ち穂拾いのお経ともいわれております。それは法華経で取り残された衆生のために、さらに念を入れて説かれたからです。ここで注意しければいけないことは、涅槃経はあくまでも法華経の補完的なお経である、ということです。

 天台大師は、お経文の中に示される釈尊の教えを分類され、法華経こそが釈尊の真意を説くものであり、法華経によってのみ人々は救済されるのである、と私たちに教えてくれる上から「五時の教判」といわれるものを示されたのです。日蓮大聖人様はその教えに基づいて諸宗の誤りを指摘し善導遊ばされております。

 このように明らかな教判があるにもかかわらず、仏の心よりも自らの心にしたがい道に迷っているのが、念仏をはじめとする各宗派の開祖たちであり、その門弟です。前に戻って、法然の説く、「捨閉閣抛」を考えてみますと、この言葉で、真実の教えである法華経を捨てよ閉じよ等といって、人々を惑わしているのですからその罪は大きいのです。また、法然は次のようにもいいます。「法華経の教えは尊い教えであり末法の衆生の機根は低い。したがって低い機根にあった念仏の教えでなければ救われない」と。あるいは「法華経は難しい、念仏は簡単である」とも。さらには、「念仏以外の教えでは千の中の一つも成仏することができない(千中無一)」というようなこともいっております。これらの教えはもっともらしく聞こえ、さらに簡単であることから人々はそれまで帰依していた迹門ではありますが法華経の教えから念仏の教えに改宗してしまいました。その結果、間違った薬を飲むと副作用に苦しめられるのと同様に、誤った信仰により、多くの苦しみを受けなくてはならない状況に追い込まれてしまったのです。

 ここでもう一つ考えていただきたいことがあります。それは、先にも触れましたが、「捨閉閣抛」や「千中無一」の例からも明らかなように、念仏宗でも「念仏が一番であり、その他の教えは捨ててしまえ」と主張していた、ということです。今日、私たち法華講衆が、念仏の人や真言の人たちを折伏すると、「日蓮大聖人の教えだけが正しくて、その他の教えは間違っている、と悪口を言うのはおかしい。信じてさえいれば何でもよい」と反論されます。しかし、七百年前には念仏の人たちであっても、法華経は間違っている、といって念仏のみが正しい教えである、と主張していたにもかかわらず、現在ではそのようなことはおくびにも出さず、ただ信じているならどの様な信仰でもよい、他宗の誤りを指摘するなどとんでもないことだ、という教えに変わっております。これは、念仏宗の開祖である法然の教えにも反する暴言です。今一度「正直捨方便(正直な心になって、法華経以前の仮りの教えに執着してはなりません、との意)」の法華経の文の意を学ぶべきです。自身の信じている信仰が何であるか、を知らないで、ご先祖からのものだから、と言う信仰は、何も知らないで、薬を飲んでいるようなもので、副作用が出てから後悔しても遅いのです。世の中には誤った薬の飲み方をして、多くの人が副作用に苦しめられています。なお悪いことに、大多数の人が副作用であることも知らない、という現実です。

 私たち法華講衆は、このような現実の姿をよく知り、そのことを教えてゆかねばなりません。よかれと思って信仰しているものが、先祖から継承されている信仰が、実は間違っているのである、ということを教えることのできる役目を、私たち日蓮正宗の信徒は担っております。いな、私たち以外にその役目をはたすことができる者はおりません。なぜなら、七百年前の鎌倉の時と、七百年後の平成の時と、少しも変わらずに折伏の修行をしている宗旨であることを見れば明らかです。日蓮大聖様が七百年前に説かれたことを、平成の世にあっても、寸分違わずに実践している日蓮正宗だからこそ、念仏宗や真言宗やその他の仏教各派の人々に声を大にして、「あなた達の信仰は仏様の教えに背くばかりがそれぞれの祖師にも背くものです。正しい真実の教えに帰依しましょう」と勧める資格があるのです。拝読の御文の後には、
「汝須く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐を祈るべきものか」(二四九頁)
と仰せです。「私一人だけの幸せなどあり得ない、皆が幸せになって初めて私の幸せもある」との大聖人様のお言葉が私たちの永遠の指針です。さらに、その指針を実現するためには、
「唯我が信ずるのみに非ず、又他の誤りをも誡めんのみ」(二五〇頁)
との行動が大事です。朝夕の勤行で「乃至法界平等利益自他倶安同帰寂光」と、御観念申し上げるのも、折伏の実践を決意していることなのです。朝晩決意しているのですから、後は実践あるのみです。

 正しいことを正しい、ということは簡単なことです。誰にでもいえます。しかし、そのことを言い続け、言うばかりではなく実践することは難しいものです。難事の中でも第一の難事です。しかし、難しい修行だから功徳も大きいのです。功徳を受けたいと願うのであれば、幸福な人生をおくりたいと願うのであれば、心に抱えている大きな悩みを解決したいと願うのであれば、日蓮大聖人様の教えて下さるままに進むことです。日蓮大聖人様を信じることです。

 難しいと言っても、山の中に籠もって座禅を組んだり、寒さに震えながら滝に打たれたりするわけではありません。日蓮大聖人様が、南無妙法蓮華経と御図顕下さったこの御本尊様を受持する一行でよいのです。この一行、つまり御本尊様一筋の修行は、難しいといえば難しい修行ですが、修行ととらえて取り組むならば、それは日々の暮らしの一部となり、「信心即生活」を実現することが叶うのです。ようは、心構えに尽きます。そこに大きな功徳が顕わるのは多くの人が体験してきたことです。

 以上のことから、拝読の文の「正道の侶」、つまり、正しい道を説く僧侶は日蓮大聖人様であることがお分かりになったと思います。したがいまして、日蓮大聖人様の仰せのままに、法華経を根本として人々が日々の生活を営むときに、国中が穏やかになり世の中から災害や争いがなくなるのです。

 今月は大聖人様が御本仏としての御境界を顕された意義ある月です。人界の衆生の心を浄化し、災害や争いのない平和で穏やかな社会が出現することを願って唱題を重ね、願うばかりではなく、実践の修行、すなわち折伏行に励もうではありませんか。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺