日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成19年11月4日 広布唱題会

十八円満抄

〜 仏は我が心に 〜

十八円満抄(御書一五一九)
弘安三年一一月三日 五九歳

十八円満抄 (新編御書一五一九頁)

毎自作是念の念とは、一念三千生仏本有の一念なり


 『十八円満抄』は弘安三年十一月三日に御認めになられ、弟子の最蓮房に与えられたものです。最蓮房は大聖人様のお弟子になる前は天台宗の僧侶でした。しかし、縁あって大聖人様のお弟子となり、教学に励まれました。『諸法実相抄』や『当体義抄』、『立正観抄』、『草木成仏口決』、『生死一大事血脈抄』などの多くの御書を戴いております。何れも法義の上から重要な御書です。文章も私たちからすれば難解です。難解であるということは、それだけ最蓮房の教学力が勝れていたことを物語っております。

 天台宗の学僧であった最蓮房に与えられた御書を、平成の私たちが拝読してその意味が理解できるわけがない、とあきらめる前に、大聖人様のお言葉「以信代慧」を思い出しましょう。信を以って智慧に代える、と仰せです。ですから、難解な御法門であっても、信ずることによって理解を得ることができます。大切なのはあきらめないで、御本仏のお言葉を信じ切ることです。成仏というこれ以上ない最高幸福境界を開いて行く鍵はここにあります。御本尊様に向かって唱題することで得られる不思議な功徳を実感するときでもあります。

 御文は、朝夕の勤行に読誦する自我偈の最後の文である「毎(つね)に自ら是の念を作さく」の「念」についての教えです。

 「一念三千」の教えが、念仏や真言には説かれることなく、それらの教えに隔絶して尊いのは、衆生と仏は一体である、衆生と仏の差別はない、ということを明らかにされたところにあります。大聖人様は、「迷っているときが衆生であり、悟ったときが仏である」と拝読の『十八円満抄』で教えて下さっているのです。

 そのことを詳しく見てゆきますと、先ず「一念三千」ですが、これは、私たちの一瞬の生命の中に三千もの生命が具わっていることを教える言葉で、中国の天台大師のお悟りです。天台大師はこの一念三千という言葉で、私たちの生命の中には仏様の尊い命がおわしますことを教えました。したがって、その一念三千の教えを信ずるならば、「生仏」即ち衆生と仏は同じであり、「本有」つまり、仏の命を本来所有しているのである、と説かれるのです。この「一念」は、仏も衆生も等しく具えている一念であり、この一念を具備していることが大切なのです。

 ここで大事なことは、天台大師は自らの悟りを「一念三千」と示されました。末法の御本仏日蓮大聖人様は、その「一念三千」の本法は南無妙法蓮華経であると末法に生を受けた私たちに教えて下さっていることです。ですから、南無妙法蓮華経と御本尊様に向かってお題目を唱えることにより、仏と衆生が別々にあるのではない、と知れるのです。

 私たちの日常にあてはめれば、苦しみも楽しみも別々のものではない、苦しみも楽しみも、私たちの心の中に本来あるものなのだ。だから、そのことを先ず自覚することから始めよう。そのように自覚することにより苦しみは楽しみに変わってゆくのである、と。例えば、病で苦しんでいるならば、病によってこれまで知ることのなかった病を持つ人の気持ちを理解することができるようになった。あるいは、対人関係の苦しみを経験することにより、これまで以上に他人に優しくすることができるようになれた。などなど。

 「仏様の悟り」・「成仏」などというと、私たちには縁のない特別なことのように思いがちです。ところが、南無妙法蓮華経の教えは、私たちの心の中にはすでに仏様がおわします、そのことに気付いたときが悟り、気付かずにいるときが迷い、と実にわかりやすい教えなのです。難しく考える必要はまったくありません。ただひたすら、正直に素直な心で御本尊様一筋に南無妙法蓮華経と唱え、人にも勧める、これでよいのですから。

 今月はお会式です。お会式にはご信心にいまだ縁のない方をお誘いし、自他共に一念を光り輝かせる修行にお励みましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺