日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年2月10日 御報恩御講拝読御書

撰時抄

撰時抄 (新編御書八三四頁)
建治元年六月一〇日 五四歳

撰時抄 (御書八三四頁)

夫仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし


〔現代語訳〕

仏の教えを修学して悟りを得ようとする者は、現在が仏法上どのような時代であるかをよくよく学ぶこと。これが必須である。


〔ポイント〕

 ここで仰せになる、時をならう、とは法華経を弘める時ときを知りなさい、という意味であり、末法には法華経のみが弘まることを仰せなのです。さらに、私たち日蓮正宗の文底の教えでは、三大秘法の南無妙法蓮華経の教えが弘まる時である、と拝することが肝心です。

 当抄は、建治元年(一二七五)六月十日、日蓮大聖人様が五十四歳の時に身延にてお認めになられ、駿河の国西山由比入道に与えられた書で、十大部の一つです。

 日興上人は、『富士一跡門徒存知事』に、
一、撰時抄一巻、今開して上中下と為す。
  駿河国西山由井某に賜ふ。正本は日興に上中二巻之在り、下巻に於ては日昭の許に之在り (新編御書 一八七〇頁)
と記されております。


〔時を知ることが大事〕

 時を知ることは仏法上のみでなく世間一般でも大切なものです。時を知ることにより、今どのような作物の種を蒔けばよいかが分かります。秋になり、収穫をすることが出来るのも時を知っていればこそです。反対に、時を知らなければ、春に植えるべきでない苗を植えて枯れさせ、収穫が出来ないことになります。

 このように時を知ることは、私たちが生活をしてゆく上で必要不可欠のものです。したがって、時を知ることは、とりもなおさず私たちの生き方を知ることになります。生き方というと抽象的な言葉に聞こえますが、生きる術、身の処し方、生き様、英語ではライフスタイル、生物学的にいえば生態といえるでしょう。

 時代を先取りして成功した、という体験談はよく耳にするものです。反対に時代を読めなかった、と悔いる言葉も少なくありません。このような例を挙げるまでもなく、時を知ることは即生き方を知ることなのですから最も大切なことでなのです。

 当抄で、日蓮大聖人様は、時を知ったなら、今すべきことが明きらかになる、と御指南下さっております。また、総本山二十六世日寛上人は『撰時抄愚記』で次のように仰せです。
  問う、別して末法の時を撰取する意如何。
  答う、此に両意あり。
  一には末法に於ては、必ず応に文底秘沈の大法広宣流布すべし。
  二には今末法に於て応に日蓮を以て下種の本尊と為すべきなり云云。

つまり、撰時抄の撰の字は、末法という時代を選び取る意味であり、その末法の時代には法華経の寿量品の文の底に秘し沈められた大法、いわゆる南無妙法蓮華経の教えが世界中に弘まることが示されている。また、末法の仏様は日蓮大聖人様であられ、日蓮大聖人様を御本尊様として拝することが撰の字に込められた意義である、ということです。

 ようするに、末法は、御本仏日蓮大聖人様の仏法である独一本門の大法、南無妙法蓮華経が、世界中に弘まる時である、ということです。このような大聖人様、日寛上人の御教えに接するとき、お題目を唱えていることの有り難さが身に染み入ります。私たちは仏縁によって、南無妙法蓮華経の大法を信じ修行に励むことが叶っております。換言すれば、時を知り、今はどの様な教えを信仰するればよいかを理解していることになります。そして、その教えを根本にして日々の生活を組み立てることが出来ている、ということになるのです。凡眼凡智では到底理解できないことかも知れませんが、仏様の眼で見れば、とても素晴らしいことなのです。


〔時を知らないと?〕

 ところが、如何でしょうか。私たちの周囲は。時を読み違い、時に逆らって、寒さに震えながらもクーラーをつけているような人がなんと多いことか。真夏に炬燵に足を入れて、暑い暑いと嘆いている人々ばかりなのが日本です。政治・経済・教育、いずれをとっても暗いニュースばかりです。その結果、自信を失い、やることなすこと裏目裏目の連続で、負のスパイラルから抜け出すことが出来ない状況にあるといえます。一度失敗したら、その失敗を取り返すことが出来ずにズルズルと深みにはまって、永久にはい上がることが出来ないような追いつめられた心理状況にあっては、よい仕事など出来るはずはありません。一度や二度の失敗はたいしたことではない、という失敗してもその失敗を取り戻すことが出来る環境があって初めて前に進むことができます。

 思えば、私たちも子供のころは失敗をしても取り返す機会があり、また励まされる環境にありました。それは、外で何かあったとしても、家に帰ればお父さんやお母さんやがいて、あるいは、お祖父さんやお祖母さんに慰められて、傷んだ心を癒し、また次の行動に移ることが出来ました。そう繰り返して少しずつ成長することが出来たのです。大人になった後は、全てが自身の責任となり、失敗を恐れるあまり前に進むことが難しくなっているのです。ですから、大人になった後も、拠り所となる何らかの場所やものが必要となります。船と母港に例えることが出来ます。


〔あなたは母港を持っていますか?〕

 三大秘法の大御本尊様が最高の母港であり、信じている私たちが船です。この例から分かりますように、ご信心をしない人は母港を持たない船です。何十万トンという大きな船であっても、また最新の機器を装備した船でも、燃料や食料の補給を受ける母港を持たない船は、やがて航海が出来なくなってしまいます。小さな船であっても、母港が定まっていれば何の心配もなく大海原に乗り出して大きな成果を挙げることができます。同じように、私たちも、心の中に母港を持たなければ難破してしまいます。いくら立派な人であっても、お金や地位に恵まれていたとしても、生命の母港を持たない人はやがて海の藻屑となり果てることは過去の歴史が物語っております。

 正しい母港を持つことが人生には大事であることが分かりながらその術を知らない人もいれば、母港の意味さえ理解しない人も大勢おります。母港を持っているとしても、時を知らない者の持つ母港は十分な役目を果たすことは出来ません。それどころか、なまじ母港を持っているゆえに、そこに固執して真実の母港に入ることが出来ない人たちも少なくありません。母港を持っていたとしても誤った母港であることを教え、母港を持たない人には母港に導くことが私たちの使命です。

 『撰時抄』に大聖人様がお示し下さる、時を学び、この時に相応しい南無妙法蓮華経の信仰をしている私たち使命は「水先案内人」になることです。私たちの母港へ、難破しそうになっている船を導き入れ、ここで元気に回復させて送り出す使命をはたすことができてはじめて日蓮正宗富士大石寺の信心をしているといえます。成仏の功徳はそこにこそ具わるのです。まだまだ寒さは続きますが、平成の水先案内人の役目を自覚し進んでまいりましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺