日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年3月9日 御報恩御講拝読御書

報恩抄

報恩抄 (平成新編御書一〇三六頁)
建治二年七月二一日 五五歳

報恩抄 (御書一〇三六頁)

日蓮が慈悲曠大(こうだい)ならば南無妙法蓮華経は万年の外(ほか)未来までもながる(流布)べし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此の功徳は伝教・天台にも超へ、竜樹・迦葉にもすぐれたり。極楽百年の修行は穢土(えど)の一日の功に及ばず。正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか。是はひとへに日蓮が智のかしこきにはあらず、時のしからしむるのみ。春は花さき秋は菓(このみ)なる、夏はあたヽ かに冬はつめたし。時のしからしむるに有らずや


【意訳】

 日蓮の慈悲が広く大きいならば、日蓮の南無妙法蓮華経の教えは、末法万年ばかりではなく未来永遠に流布するであろう。この南無妙法蓮華経の教えは、日本国中の人々の誤った考えをあらためて、正しい道を歩むことができる功徳がある。これは、誤った教えによって際限のない苦しみに堕ちることを防ぐものである。南無妙法蓮華経の功徳は、正法時代や像法時代に出現した伝教大師や天台大師、龍樹菩薩や迦葉尊者が説き弘めた教えよりも勝れたものである。また、修行においても、極楽浄土で百年の間修行をして積む功徳は、この穢土でのたった一日の修行の功徳にも及ばない。正法時代 と像法時代の二千年の間仏法を弘通する功徳は、末法の一時の弘通の功徳に及ばない。このように、南無妙法蓮華経の教えと、その教えを弘通する功徳が勝れているのは日蓮の徳ではない。ただ末法という時であるからである。このことは、春には花が咲き、秋には実を結び、夏は暖かく冬は冷たいのと同様に、末法という時が自然にそのようにさせているのである。


【語句の意味】

○日蓮が慈悲−末法の御本仏としての慈悲。末法の一切衆生を成仏に導くお心。
万年の外未来までも−万年は時間的には未だ限定的であるが、未来とすることにより永遠の意義が示される。
南無妙法蓮華経−三大秘法総在の南無妙法蓮華経のこと。この南無妙法蓮華経は本門戒壇の大御本尊様に納まる。したがって、ここで仰せになられる南無妙法蓮華経は、大御本尊様のことである。
○盲目−『日女御前御返事』には「日本国の一切衆生は盲目と耳しひのごとし。此の一切の眼と耳とをくじりて、一切の眼をあけ、一切の耳に物をきかせんは、いか程の功徳かあるべき」(新編御書・一二三三頁)とある。誤った教えに執われ、誤った教えであることも分からない日本国の人々を、大聖人様は「盲目」と仰せになる。
○無間地獄−間断のない苦しみの世界。苦しみがとぎれることなく続くさま。
○伝教−日本天台宗の開祖、最澄のこと。近江の生まれで桓武天皇の帰依を受け比叡山延暦寺を開き、法華経迹門の戒壇を建立した。三国四師の一人。三国は、日本・中国・インドの三カ国。四師は釈尊・天台大師・伝教大師・日蓮大聖人様。
○天台−中国の天台大師のこと。中国隋代に法華経を弘め人々を導いた。
○龍樹−インドの論師で龍樹菩薩のこと。大乗教を弘めた。
○迦葉−摩訶迦葉のこと。釋尊の十代弟子の一人で、頭陀第一といわれる。頭陀とは修行のこと。
○極楽−極楽浄土のこと。阿弥陀経の中で説かれる国土。裟婆世界から西方に十万億の仏土を過ぎたところにあるとされる。この国土に住む人々は苦しみがなく楽しみのみを受けることができると説かれている。そこから、この上もない、極めつきの楽しみの世界という意味で極楽といわれる。教主は阿弥陀仏である。
○穢土−けがれた国土。苦しみの世界。地獄界・餓鬼界・畜生界をはじめとする六道の衆生の住む裟婆世界のこと。
○功(く)−字義は、穴をあけるのはむつかしい仕事であり他の仕事よりも努力がいるが、それを成し遂げるために知恵を使い工夫を凝らして取り組む姿と結果を表している。つまり、苦しいことや困難なことに立ち向かう姿勢や、そのことで得た結果をいう。ここでは、功は努力・精進をしたこと事態を指すものであり、結果に重きを置くのではなく、何事にも前向きに取り組んでゆく修行を「功」と仰せになっている、と拝する。
正像二千年−正法時代の千年と像法時代の千年のこと。正法時代は釈尊滅後千年の間とされ、釈尊の残した教えと修行がありそれによって正しい悟りを得ることが叶う時代をいう。像法時代は釈尊滅後一千年から二千年までの時代をいう。像は似(に)るという意味で、正法時代に似た時代であるとの意。像法時代には教えと修行は残っていても、人々の機根(仏の教えを理解しようとする能力)が低くなっているために悟りを得るのは難しくなった。
○弘通−法を弘めること。弘教・弘宣ともいう。
○末法−末法時代。釈尊滅後二千年以降をいう。正法時代・像法時代とあわせ、三時という。末法には釈尊の教えの力が消滅する時代であるから、いくら釈尊の教えによって修行に励んだところで悟りを得ることは出来ない時代である。そこで、末法の仏様が出現され、末法の人々のために教えを説かれ修行の方法を示されたのである。その仏様が日蓮大聖人様であられ、教えが南無妙法蓮華経である。したがって、末法に生を受けた私たちは、日蓮大聖人様の教えを信じ、南無妙法蓮華経とお題目を唱え折伏に励むことにより、仏様の悟りと同じ悟りを得ることが出来るのである。


『報恩抄』について

 報恩抄は建治二年(一二七六年)七月二十一日に身延から安房の国清澄に住していた浄顕房と義城房に宛てて書かれたもので、この時日蓮大聖人は御年五十五歳。大聖人の初発心の師匠である道善房の死去に際して、追善供養のために真実の報恩について説かれている。師の大恩を報ずるために、仏法を習い極め、智者となることが肝要であり、出家して一代聖教を学ぶことが大切であると述べられている。さらに、仏の教えの中では、法華経が最も勝れており、法華経は題目が肝心であることを示され、末法の法即人の本尊及び戒壇と題目の三大秘法を整足して明かされている。

 当抄の冒頭には
「夫老孤は塚をあとにせず。白亀は毛宝が恩を報ず。畜生すらかくのごとし。いわうや人倫をや」
とある。これは年老いた狐が死ぬときに、生まれた巣に足を向けて死ぬようなことせずに、頭を巣に向けて死ぬのである。また、毛宝という者に助けられた白い亀は、その恩を忘れることなく、毛宝が戦に敗れ川岸に追いつめられ殺されようとしたときに、水の上を渡して窮地から救った、といわれている。このように動物でさえ恩を知り、その恩を報ずるのである。まして人間が恩を知り恩を報ずることを忘れて良いはずがない、ということを述べられ、恩を知ることの大切さ、恩を報ずることの大切さが説かれている。

 『富士一跡門徒存知事』には、
一、報恩抄一巻、今開して上下と為す。此の中に弘法の面門俄かに開く事。身延山に於て本師道善房聖霊の為に作り清澄寺に送る、日向の許に在りと聞く。日興所持の本は第二転なり、未だ正本を以て之を校せず (平成新編御書・一八七〇頁)
とある。日興上人は当抄を、『立正安国論』・『開目抄』・『観心本尊抄』・『撰時抄』とともに五大部とされ、大聖人様の御書の中でも特に重要な御書であるとされている。

 総本山二十六世日寛上人は、当抄の報恩は、@父母の恩、A師匠の恩、B三宝の恩、C国王の恩の四恩の中でも、特に師匠の恩を報ずるためである、と御指南されている。


当御文の拝読ポイント

日寛上人は
@「日蓮が慈悲」を親徳。
A「日本国の一切衆生の盲目をひらける」を師徳。
B「無間地獄の道をふさぎぬ」を主徳。
とされている。そしてこの主・師・親の三つの徳を日蓮大聖人様は一身に備えておられるのであるから仏様なのである、と仰せになられる。日蓮大聖人様を末法の御本仏と拝して、日蓮大聖人様の御指南を素直に信じ、修行に励むことにより、大きな功徳を受けられることが示されている。三徳を具えられるのは仏様だけであることは、
「一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て」(『下山御消息』新編御書一一四二頁)
この御文からも明らかである。

 また、浄土教のように、現実逃避をするのではなく、現実を見つめ、困難に立ち向かってゆくことこそ成功の秘訣であることを教えて下さっていることを見逃してはならない。弱い人間の心ではあるが、絶対の仏力・法力を具える御本尊様を信じ、末法の修行である折伏行に励むならば、必ず問題を解決し前に進むことが出来ることを示されるのである。苦しみの中にいると、その中から逃げだそうとするのが人間の本性であるが、大聖人様は、問題を解決しないで逃げ出したのでは同じ苦しみを繰り返すことになりますぞ、と教えて下さっている。困難な中で努力し、問題解決に知恵を絞り、初めて本当の楽しみが味わえるのである、と。

 立正安国論正義顕揚七百五十年を節目として、地涌倍増、つまり折伏の修行をしなさい、と御法主上人が私たちに仰せ下さるのも、折伏という大きな課題を与えて下さり、その課題を克服することにより大きな喜びを知り、それを生活の面で生かすように、という御慈悲からの御指南なのであると拝することが肝心です。

 信心を通して生活を変えることが出来るのが日蓮大聖人様の仏法です。念仏宗などと違うところです。よい季節を迎えますが、芽吹く草花に負けないように私たちも精進をいたしましょう。

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