日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年4月13日 御報恩御講拝読御書

持妙法華問答抄

「今生人界の思い出をつくろう」

持妙法華問答抄 (平成新編御書二九九頁)
弘長三年三月 四二歳

持妙法華問答抄 (御書二九九頁)

されば『七難即滅七福即生』と祈らんにも此の御経第一なり。現世安穏とみえたればなり。他国侵逼・自界叛逆の御祈祷にも、此の妙典に過ぎたるはなし。「百由旬の内に諸の衰患無からしむべし」と説かれたればなり。
然るに当世の御祈祷はさかさまなり。先代流布の権教なり。末代流布の最上真実の秘法にあらざるなり。譬へば去年の暦を用ゐ、烏を鵜につかわんが如し。是偏に権教の邪師を貴みて、未だ実教の明師には値はせ給はざる故なり。惜しいかな、文武の卞和があら玉、何くにか納めけん。嬉しいかな、釈尊出世の髻の中の明珠、今度我が身に得たる事よ。十方諸仏の証誠としているがせならず。さこそは「一切世間には怨多く信じ難し」と知りながら、争か一分の疑心を残して、決定無有疑の仏にならざらんや。過去遠々の苦しみは、徒にのみこそうけこしか。などか暫く不変常住の妙因をうへざらん。未来永々楽しみはかつがつ心を養ふとも、しゐてあながちに電光朝露の名利をば貪るべからず。「三界は安きこと無し、猶火宅の如し」とは如来の教へ「所以に諸法は幻の如く化の如し」とは菩薩の詞なり。寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくば「現世安穏後生善処」の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一つにして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧めんのみこそ今生人界の思出なるべき。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
                                  日蓮 花押


【通 解】

(仏は一切の衆生を成仏に導くために法華経を説かれました)それゆえ、七種の難がたちまちに消滅し、七種の福がたちまちに生ずるように、と願うには、この法華経が第一なのです。その理由は、法華経の薬草喩品第五に、「現世は安らかに穏やかに、そして来世は善き処に生まれる」と説かれているからです。また、他国からの侵略や自国の内乱を未然に防ぎ、平和な国土であることを願う上でも、この法華経よりすぐれた経典はありません。それは、法華経の陀羅尼品第二十六に「四千キロメートル四方の中で、衰え患う人はいなくなる」と説かれていることからも明らかです。
 ところが、今の人々の祈りは、古い時代の教えである権教(仮りの教え)を頼りにするもので、末法の人々を救う真実最高の秘法ではありませんから、思いは叶えられず反対の結果を招いているのです。それは、去年の暦を用いたり、烏に鵜の代わりをさせるようなもので、何の役にも立ちません。このようになった原因は、仮の教えを説く誤った師を貴び、真実の教えを説く正しい師に会ったことがないことにあります。このように、真実に迷うことは残念なことです。中国周代の武王や文王の時にあった、「卞和が璞玉」の故事を忘れてしまったのでしょう。しかし、日蓮にとって嬉しいことは、釈尊が出世の本懷とされ、転輪聖王の髻の中に秘めて、他の人には譲られなかった最高の宝を今この身に得たことです。このことは、法華経神力品第二十一で、十方の仏が証明したことであり、いい加減にしてはなりません。また、安楽行品第十四には、「世間の中にあって、法華経を怨む者が多く信じ難い」と説かれております。このことを知っていながら、難が起こると疑う心も起こります。それでもなお、法華経神力品二十一には、「法華経を受持する者は仏の道に入り、成仏が決定してそのことを疑うところがない」と説かれておりますから、仏になれないはずはありません。
 遠い過去から受けている苦しみは、ただ無駄に受けたただけでした。(それは、妙法の教えを知らなかったからです)ところがこの度は違います。(唯一絶対の妙法にめぐりあうことができたのですから)永遠に変わることのない妙法を、我が命に植えないでおられましょうや。仏になることは、未来永遠に続く楽しみではありますが、今はそのことに気付かず、心が満たされることはないかも知れません。だからといって、稲妻や朝露のような一瞬の名聞名利を貪ってはなりません。法華経譬喩品第三には、「私たちの住む現実の世界は安らかな所ではなく、火に焼かれる家のようなものである」と説かれております。また、大智度論には、「現実世界の出来事は実体のない幻のようなものである」とあるごとくです。(辛く苦しいのがあたりまえの国土なのです)ですから、仏の住む国土の寂光の都以外はどこであっても苦しみの所である、仏の本来の覚りである妙法を離れて何の楽しみがありましょうか。願うことは、法華経薬草喩品第五の、「諸の衆生は法華経を聞き終わった後には、現世は安穏になり、来世は善きところに生まれる」とある妙法の教えを持つこと以外にありません。このことが今生での真実の名誉であり、来世では成仏への手引きとなるのです。なすべきこととしては、心を一つにして南無妙法蓮華経と自らも唱え、また周りの人たちにも勧めることです。これこそ、現世に人間として生まれてきた最高の思い出となるのです。


○卞和が璞玉

 中国の楚に卞和という者がおりました。卞和はある時山で原石を見つけ、この石を研けば素晴らしい宝物になる、と思い時の王である 脂、(れいおう)に献じた。しかし、玉造は価値のない石であると鑑定したために卞和は王を欺く者であるとして左足を切り落としてしまった(足の筋を切った、という説もある)。代が変わって武王の時にも同じように献上したが今度は右足を切り落とされて荊山に流されてしまった。その後、文王が卞和の話を聞き璞玉を研かせたところ、玉から発せられる光は夜になれば十二もの街を照らし出すほどであった。この故事は、当時の鎌倉幕府がおかれている状況、蒙古来襲の危機の時でさえ、その災いを払うことの出来る最高の教えである法華経があるにもかかわらず、その価値に気付かずにかえってそのことを教える大聖人を迫害することに例えている。


○髻の明珠

 法華経安楽行品第十四に説かれる「髻中明珠の譬え」のこと(新編法華経三百九十七頁)。これは、仏が文殊師利の問いに答えたもので、法華経が仏のお悟りの中でも第一の法であり、多くの教えがある中で、最も深く貴い教えであることを転輪聖王を通して譬えたもの。経文には、強い力の国王である転輪聖王が、その力を持って隣国を平定しようとしたときに、小さな国の王たちが従わなかったときには兵を起こして討伐をし、将兵には用きによって土地やお城や衣服、また財宝等の小さな褒賞を与えた。しかし、髻の中にある大きな褒賞である玉だけは与えることはなかった。何故ならば、この玉を与えたならば、見たことのない素晴らしい玉であるから、人々は驚き怪しむからであった。さらに仏は続けて、仏の教えもまたこれと同じであって、人々が成仏という大きな功徳を得るために修行に励むとき、多くの魔が襲い来たって修行の妨げになる。その魔と闘ったものに、歓喜の心を起こさしめ、さらなる精進をさせるために、華厳や阿含や方等や般若の教えを説き、励まし導いたのであるが、ただ法華経のみは説かなかった。それは、転輪聖王が功績のあった将兵であっても、妄に髻中の明珠を与えなかったのと同じある。それほど法華経は有難く貴い教えなのである、と。釈尊が滅後を間近にした八箇年において、はじめてこの法華経を説くにいたった理由を示されるところです。
 安楽行品には、「(この法華経は最も貴い教えであるから)一切世間に怨多くして信じ難し」とあります。ですから、仏の言葉を信ずるものにしか法華経は説かれなかったのです。しかし、日蓮大聖人様は、信じる者にも信じない者にも説き聞かせよ、と命じられております。この釈尊と大聖人様の仰せの違いは、時代にあります。釈尊の時代は人々の心根も善く、少しの教えでも悟りを得ることが出来ました。小さな褒美と同じです。しかし、末法の今日は、人々の心根は地に落ちております。小さい教えでは救うことが出来なくなったのが今日なのです。ですから、難しく信じ難いのではありますが、あえてこの教えを説き弘めなくてはならないのです。「良薬口に苦し」との譬えもあるように、簡単に信じられるものではありません。しかし、私たちは、この御本尊様以外にない、とかたく信じ、自他倶安同帰寂光の修行に励みましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺