日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年4月28日 立宗会拝読御書

立宗会

立宗会拝読御書(平成二〇年四月二十八日)


《御本尊の功徳》

聖愚問答抄 (御書四〇六頁)

只南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅せぬ罪や有るべき、来たらぬ福や有るべき。真実なり甚深なり、是を信受すべし


《御本尊は最高の薬》

教行証御書 (御書一一〇三頁)

今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無く、権実の二機悉く失せり。此の時は濁悪たる当世の逆謗の二人に、初めて本門の肝心寿量品の南無妙法蓮華経を以て下種と為す。「是の好き良薬を今留めて此に在く。汝取って服すべし。差えじと憂ふること勿れ」とは是なり。乃往過去の威音王仏の像法に大乗を知る者一人も無かりしに、不軽菩薩出現して教主説き置き給ひし二十四字を一切衆生に向かって唱へしめしがごとし。


《謗法厳誡》

上野殿御返事 (御書一二一九頁)

此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば、ゆゝしきひが事なり。日出でぬればとぼしびせんなし。雨のふるに露なにのせんかあるべき。嬰児に乳より外のものをやしなうべきか。良薬に又薬を加へぬる事なし。此の女人はなにとなけれども、自然に此の義にあたりてしをゝせぬるなり。たうとしたうとし。恐々謹言。


《末法こそ妙法流布の時》

妙一女御返事 (御書一五〇〇頁)

問うて云はく、日蓮計り此の事を知るや。答へて云はく「天親・竜樹内鑑冷然」等云云。天台大師云はく「後の五百歳遠く妙道に沾はん」。伝教大師云はく「正像稍過ぎ己はって末法太だ近きに有り、法華一乗の機今正しく是其の時なり。何を以てか知ることを得ん。安楽行品に云はく末世法滅時」云云。此等の論師人師、末法闘諍堅固の時、地涌出現し給ひて本門の肝心たる南無妙法蓮華経の弘まらせ給ふべき時を知りて、恋させ給ひて是くの如き釈を設けさせ給ひぬ。


 釈尊は十九歳で出家され、難行・苦行の後、三十歳で覚られました。そして、華厳時・阿含時・方等時・般若時と衆生(人々)の機根に会わせて様々に説き、人々を導きました。さらに、七十二歳の時から法華経を説かれ、先ず迹門の方便品では、「諸法の実相」をしめされました。これは、一切衆生がことごとく成仏することの原理を明らかにしたものです。このことを、理論・原理の上から一念三千が明らかにされた、という意味で、「理の一念三千」といいます。
さらに進んで、本門寿量品で、五百塵点劫を明らかにされ、釈尊は三十歳で成道をしたのではなく、久遠の昔に覚りを開き、それ以来この娑婆世界にあって人々を導いてきたのである、と釈尊の本地を顕されました。本地とは本来の境地、本当の姿の意です。
このことを「五百塵点劫の顕本」といいます。お経文では、
「我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり。(然我実成仏已来・無量無辺百千万億那由佗劫)」
と説かれるところです。意味は、「私(釈尊)が仏になってより、無量であり無辺であり、百千万億那由佗劫というそれはそれは長い長い時間が経過しております」というものです。
さらに、その経文に続いて、本因妙・本果妙・本国土妙の三妙を説かれ、「事の一念三千」を明かされました。

朝夕に読誦する寿量品には、
「我常に此の娑婆世界にあって説法教化する(我常在此娑婆世界)」
と説かれています。経文の意味は、「私(しゃくそん)は、仏になってからいつも此の娑婆世界に住んで法を説き人々を導いてきたのです」となります。このところを、「本国土妙」が明かされた、といいます。爾前権教、ことに阿弥陀経などでは、私たちの住むこの世界は汚れた国土、穢土であると忌み嫌われておりました。しかし、本国土妙が明かされることで、この娑婆世界に、仏様が常にお住まいになっている、この娑婆世界はこの上もない素敵な国土であることがはっきりとしました。同時に、その国土に私たちと共に存在する草木などの非情にも成仏の道が開かれました。

また、
「是の如く我成仏してより已来、甚だ大いに久遠なり、寿命無量阿僧祇劫なり。常住にして滅せず(如是我成仏已来、甚大久遠、寿命無量阿僧祇劫、常住不滅)」
と説かれます。意味は、「このように、私が仏と成ってよりこれまで、非常に永い永遠の時が経過しています。私の寿命は数えることのできない永いものです。常にここにとどまって滅することはありません」というものです。ここで、「本果妙」が明かされた、と拝します。つまり、仏様の本果常住を聞いて、無始以来の自己と仏様の常住の因縁を覚ったのです。

さらに、
「我本菩薩の道を行じて成ぜしところの寿命、今猶未だ尽きず。復上の数に倍せり」(我本行菩薩道・所成寿命今猶未尽・復倍上数)」
と示されます。意味は、「私が菩薩の修行をして成就した寿命は今日においても尽きることはありません。また上述した二倍の長さがあるのです」ということです。これが「本因妙」を明かされた、と拝します。

この菩薩の道は修行ということで因ですから、この教えを聞いた人々は、仏様の因を知り、仏様と自己は因を等しくする常住の身であることも覚ることができたのです。
このように、寿量品で、五百塵点劫の昔から仏様であったと明かされ、本因妙・本果妙・本国土妙を説かれることで、迹門で説かれた、「理の一念三千」をさらに進めた、事実としての一念三千、釈尊の事象の上に立てられた、「事の一念三千」が本門で示されたのです。

この本因妙と本果妙と本国土妙を説くことで、私たちに何を教えてくれるのか、というと、それは、久遠の昔において、九界の衆生であった釈尊が、その生命の中に仏界を具えており、その仏界を開いて仏となったということです。そして、常にこの娑婆世界で法を説き衆生を導いてこられた、ということです。そしてそれは、釈尊在世の衆生が、自己の生命にも仏界が具わっていることを知ることになり、その結果、仏と同じように衆生も仏界を開くことができたのです。

換言すると、突然九界の衆生に仏界を具したのではない、ということがポイントです。
私たち末法の衆生もこれとまったく同じ原理が働きます。私たちの生命の中にも仏界が具わっているから仏となることができるのであり、突如として仏界が具わるのではない、ということを知っておかなくてはなりません。

また、この三妙が明かされたことにより、大日如来や阿弥陀如来等の一切の諸仏も釈尊の分身仏である、ということがハッキリとしたのです。つまり、三〇歳で仏に成った、という釈尊の立場が、実は久遠の昔から仏であったということは、釈尊が説かれた爾前の経で説かれる教えも、その結果として仏に成ったものも全ては釈尊から出たものである、ということなのです。
ここまでは文上の教えです。さらに私たちは文底の教えがあります。

そこに大聖人末法御出現の意義があります。そして、建長五年四月二十八日にはじめて私たちのために明らかにされたのです。


《文底の教え》

経王殿御返事 (御書六五八頁)

日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮がたましひは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし。


草木成仏口決 (御書五二三頁)

一念三千の法門をふりすすぎたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこなひの学者ゆめにもしらざる法門なり。天台・妙楽・伝教、内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず。


《種脱の違い》

@、機根の違い
  ア、 釈尊の教えに縁のある機根 在世の衆生「本已有善」
  イ、釈尊の教えに縁のない機根 末法の衆生「本未有善」

A仏様の違い
  ア、釈尊 脱益の仏 色相莊嚴の仏 
  イ、日蓮大聖人様 下種の仏 示同凡夫の仏

B法そのものの違い
  ア、脱益の教え
  イ、南無妙法蓮華経

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺