日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年5月11日 御報恩御講拝読御書

寂日坊御書

寂日坊御書 (平成新編御書一三九三頁)
弘安二年九月一六日 五八歳

寂日坊御書 (御書一三九三頁)

不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国の一切衆生の中には大果報の人なり。父母となり其の子となるも必ず宿習なり


【通解】

このような日蓮を生んだ父母は日本国の全ての人々の中にあっては、大果報の人です。父親となり母親となる、子供として生まれる、このことは過去世において積んだ善悪の行いによって定められたものです。


寂日坊日華上人

 当抄は弘安二年(一二七九年)九月十六日、大聖人様が御年五十八歳の時に、身延において認(したた)められたものです。残念ながら御真蹟は現存しませんが、眞僞の論諍はなく門下一般に御真蹟である、とされております。

 御書の命名は、御文の最後に、
「此の事寂日房くわしくかたり給へ」
とありますことから、お弟子の「寂日房」にこのお手紙を持たせて何方かに使いをさせたことが分かります。ゆえに、『寂日坊御書』と称するのです。寂日坊については、諱(いみな)が二通り伝えられております。一つは「日華」、もう一つは「日家」です。江戸時代に書かれた『本化(ほんげ)別頭(べつず)仏祖統記』というものには、上総(かずさ)国(千葉県)夷隅(いすみ)郡興津(おきつ)の領主・佐久間兵庫亮重吉の三男、竹寿麿(ちくじゅまろ)とあります。また、竹寿麿の長兄である佐久間重貞の子で、後に美作(みまさか)房日保ともに大聖人様の弟子となって七歳で出家したとも記されています。さらに、叔父と甥の間柄にあった二人が協力して、大聖人様誕生の地である小湊に誕生寺を建立したとされてます。

 しかし、これは間違いで、寂日坊と称されるのは日家ではなく日華上人です。正しくは、寂日坊日華上人と称し、総本山塔中の寂日坊、妙蓮寺、また甲斐に蓮華寺を建立した方で、大聖人様から
「沙門日華に之を授与す」(富士宗学要集 第八巻 二二三頁)
と脇書のある御本尊様を授与されております。日興上人は、
「甲斐の国蓮華寺住僧寂日房は日興第一の弟子」(同)
と仰せです。

 江戸時代に作られた「本化別頭仏祖統紀家」にある、「日家」といわれるお弟子が存在したかどうかも疑わしく、小湊に誕生寺jを建立したというのはさらに疑わしいものです。


解説

 「不思議の日蓮」とは、末法の御本仏である日蓮、ということです。信じることが難しいから、「不思議」とされます。不思議を辞書で調べますと、不可思議の略。よく考えても原因・結果がわからない、また解釈がつかないこと。いぶかしいこと。あやしいこと。奇怪(広辞苑)。思いはかることも言葉で言いあらわすこともできないこと。転じて、人間の思考力、判断力の及ばないこと(国語大辞典)等々です。不思議は不可思議の略ですが、不可思議は、思議すべからずと読み、仏法では、仏が悟った究極の真理のことです。確かに日蓮大聖人様が御本仏であるとは不思議です。仏様といえば、金箔で飾られた仏像だったり、阿弥陀さんや大仏さんや薬師如来が仏様だと思っている人たちにとって、漁師の子供として生まれ、地位も名誉もない凡夫が仏様である、というのは不思議であり信ずるのが難しいことです。だから不思議なる日蓮、と仰せなのです。

 しかし、この御文を戴いた方はともかくとして、お使いをした寂日坊は、大聖人様が末法の御本仏であられる、と固く信じていました。だから、御文の最後に、「此の事寂日房くわしくかたり給へ」と仰せになり、日蓮大聖人様が立宗以来多くの難を忍ばれたことは、法華経の勧持品に説かれている通りの修行の姿であることや、それを修行したのは日蓮大聖人様お一人であることなどを話してさし上げなさい、ということです。

 考えてみますと、我々は有り難いですね。何が有り難いかというと、日蓮大聖人様の全体を拝することができるからです。つまり、御書を通して御法門を学び、日興上人の御指南を通して日蓮大聖人様のお姿の全てに接することが出来ているからです。しかし、御在世の人々は大聖人様に直接お話をうかがうことができた、という幸運はありますが、多くの人は、一部分だけの理解でしかなかったようです。もちろん、御書を戴いて、小松原の法難のことや伊豆・佐渡等の御流罪、また竜の口の不思議な現証を知る人もおりましたが、現在のように印刷もありませんから限られた人のみが知ることがらであったと思われます。ですから、日蓮大聖人様の全体像に暗かったといえます。そのような理由で、日蓮大聖人様が末法の御本仏であられることが分からなかったようにも思います。お弟子の中で特に勝れていた六人の中でも、日興上人ただお一人が御本仏であられることを拝することができたのも、常随給仕と言って、常に付き随ってお仕えをしたことによります。つまり、日蓮大聖人様のお姿の全てを間近に拝し、日蓮大聖人様のお言葉の一切をお聞きになって、このお方は特別なお方である、と気付かれたからに他なりません。これが「信」です。信という字は、「人」「言」からなっております。人は行動を表し、言は言葉を表します。私たちも、日常行動と言葉が一致するように努力はしますが、時として、言うこととすることが違う、と指摘され、うるさいとさらに不一致が増幅されることがあります。それが重なりますと、信ではなく侫(ねい)(口先がうまく心がねじれていること)になります。行動と言葉が一致してはじめて「信」が生まれます。日興上人は、大聖人様のお側でお仕えして、大聖人様の御振舞とお言葉が一致していたから、末法の御本仏と拝したのです。そして、日興上人が確信されたことを、そのまま私たちに伝えて下さったのです。

「富士の立義いささかも先師の御弘通に違せざる事」(『日興遺誡置文』新編御書 一八八四頁)
とのお言葉は、まさにそのことを教えて下さる大切なものです。ですから、日興上人がおわしましてはじめて日蓮大聖人様の一切を私たちが知ることになる、といえます。換言すれば、唯授一人の血脈を御所持あそばされる日興上人を通して日蓮大聖人様につながることが叶う、ということです。ですから、創価学会がさかんに主張している「大聖人直結」などという言葉が、いかに実体のない空虚なものであるかがお分かりになるでしょう。

 繰り返しになりますが、大事なところですから心に留めて置いてください。現在では、御書もほとんどの物が印刷物として公になっています。その意味では大聖人様の全体像は皆等しく知ることができるのですが、御本仏であれる、と拝することが出来るのは日蓮正宗富士大石寺の私たちだけです。それは、常随給仕された日興上人の御指南を拝することが日蓮大聖人様の御指南を拝することになる、という筋道に立つことが分かっているからです。当抄のお使いを仰せつかった寂日坊日華上人は、前述したように日興上人が「第一の弟子」と仰せになられた方ですから、日蓮大聖人様のことを末法の御本仏と拝し、それを皆に伝える役目を果たしておりました。

 つぎに、親子の因縁を説かれております。大果報とは素晴らしい因果応報の意です。過去の善悪の業によって現世に善悪の報いを受け、現世の善悪の業によって来世の善悪の報いを受ける因果律のことですから、大聖人様のご両親が、仏様の父母となったことは、過去世に素晴らしい業をもっており、その報いで今世に仏様の父母となることができたのである、と述べられます。一切衆生の中で一番の果報である、ということを示されます。

 つまり、末法の御本仏として出現された日蓮大聖人様と親子の因縁を結ばれたことは、ご両親の大きな果報である、と仰せになります。これも有り難いお言葉です。

 さらに、親子となるのは過去世からの深い繋がりがあるのだ、と仰せです。先月も申し上げましたように、仏法は過去世・現世・来世の三世を説きます。しかし、この三世は目にみえるものではありません。また、有るとも無いとも言えません。不思議なものです。この不思議な仏様のお言葉を信じることが大切なのです。この三世を信じることができる人は仏様への道を歩むことのできる人です。信じられない人は、残念ながら苦しみの中で一生を終わる人です。

 また、ここで御指南下さる親子の関係を私たちの上にあてて拝するとき、御本尊様の信心をしていることに改めて感謝の念がわいてまいります。それは、現在日蓮大聖人様の仰せのままに信仰をしている、ということは、私たちが成仏という大きな功徳を受けていることであり、それは私たちの父母の大果報である、ということです。私たちの成仏は父母の成仏なのだ、という御指南です。有り難く感謝の念が湧くのは私ばかりではないと思います。

 十一日は母の日です。お母さんがお元気な方は、お礼の意味を込めてプレゼントをされたことと思います。まだの方は御講が終わりましたらすぐに実践してください。残念ながらお亡くなりになり、プレゼントをすることができない、と嘆くこともありません。

『上野殿御消息』では、
「されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり。我が心には報ずると思はねども、此の経の力にて報ずるなり」 (新編御書 九二三頁)
と仰せです。この御文は、御本尊様を持つことがそのまま親孝行なのである、との御指南です。ですから、亡きお母さんも、残された子供が御本尊様の信仰をすることが最高のプレゼントである、と喜ばれるのです。経文にも
「飲食及び宝は真の孝養にあらず。引導して正法に向かわしむ即親の恩に報ずるなり」
とあります。

 真実の孝養は、
「かゝる者の弟子檀那とならん人々は宿縁ふかしと思ひて、日蓮と同じく法華経を弘むべきなり」
との仰せのままに進むことです。末法の御本仏であられる日蓮大聖人様の弟子檀那となったことは過去からの深い因縁があります。偶然にここにいるのではないのです。そのことを心に留め、日蓮大聖人様と同じように、南無妙法蓮華経の教えを弘めてまいりましょう。

 六月十五日は埼玉で記念すべき大会があります。御法主日如上人がお出まし下さいます。御隠尊日顕上人もご臨席下さいます。日蓮大聖人様、日興上人様以来法統連綿として唯授一人の血脈を御所持あそばされる両上人と時と所を同じくして、広布に向かう儀式に参加することのできる良き機会です。まだ申し込んでいない方は、帰り際に青年部の世話係に申し出てください。そして、皆で功徳を分かち合いましょう。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺