日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年5月4日 広布唱題会

日興跡条々事

〜 不変 〜

日興跡条々事(御書一八八三頁)
元弘二年一一月一〇日

日興跡条々事(にっこうあとじょうじょうのこと) (新編御書一八八三頁)

日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸 け奉るべし


 六十四回目の唱題行へのご参詣、ご苦労様です。毎月第一日曜・午前九時からの唱題行は、御法主上人の大導師のもと、世界の平和を願って日蓮正宗の僧俗が心を一つにあわせて行うものです。この場に居合わせることが叶っている有り難さを思います。

 かつて池田大作は、
@本門戒壇の大御本尊の仏力・法力は絶大であられる。ゆえに総本山に参詣し、また御本尊 に題目を唱えていけば、大功徳がある(広布と人生を語る・六―一二八頁)
Aこの日蓮正宗の御本尊を受持し、信行する以外に、永遠にわたる幸福、成仏の因はもはや ない(同・四―二六七頁)
等の御本尊様に対する正しい発言をし、また学会員に指導をしていました。

 ところが、自らの謗法により、日蓮正宗から御本尊様を受けられなくなった平成三年十一月以降は、
B大事なのは『自分』である。自分の『生命』である。外にある御本尊も、我が内なる′莓{尊を顕すためにこそ大聖人が建立してくださったのである(聖教新聞 H四・一・一七付)
などといって、御本尊よりも大事なのは「自分であり自分の生命」である、と御本尊様の仏力・法力を蔑ろにする発言を繰り返すようになりました。この指導を受け、ある会員は、
C御本尊が仏界の当体であるという『実体論の神話』の崩壊である(中略)従って我々の仏 界を映す鏡であるという実践的『象徴論』が表になっていく歴史の必然的流れがある」(人間主義の凡夫本仏論・一三六頁)
との邪説をたてました。日蓮大聖人様の御本尊を否定し、本尊を拝むことなく成仏は叶う、との「本尊不要論」の誕生です。これらの邪説をもとに会員の洗脳に躍起となっていました。

 しかし、それまで日蓮正宗の御本尊様を受持し、大きな功徳を受けていた学会員にとって、心の中に本尊がある、だから心の中にある本尊を拝めばよいのだ、といわれても、さすがについて行けなかったようです。簡単に言えば、鏡に映った我が身を拝め、といっているのですから、あたりまえといえばあたりまえです。

 洗脳に失敗し、窮地に立った池田大作は、平成五年九月、それまで唱えていた、本尊不要論を投げ捨てて、本尊を作成するようになりました。これが「ニセ本尊」といわれるものです。「日寛上人の御本尊」をコピーしたといい、姿を似せてはいますが、精神は邪教そのものです。池田創価学会は、日蓮正宗から破門されてわずか二年で、信仰の最も大切な本尊を作ったのです。本尊がないと会員をつなぎ止めることができないことに気づいた窮余の策で、可哀想なのは、盲信をしている会員たちです。

 会員や勲章の数を誇っても、信念のない池田学会の姿は、邪宗教は本尊がコロコロと変わる、という実例そのものです。

 それに比して日蓮正宗富士大石寺の僧俗は、拝読の譲り状のままに、弘安二年十月に、大聖人様が御建立下さった大御本尊様を唯一絶対とした信仰を貫いております。七百年の昔から変わらずに、大御本尊様を中心とした信仰を貫いているからこそ功徳があるのです。富士大石寺の信仰の素晴らしさを確信して唱えるお題目に、過去の罪障消滅、即身成仏の大きな功徳が具わるのです。

 このことは、私たちにすればごく当たり前のことであり、不思議でも何でもありません。信心の先輩から教えられた通りの修行です。このような富士大石寺の信仰を、どんなことがあっても御本尊への確信をもって、途切れずに連綿と継承している、という意味で「針金宗」と畏敬の念を込めて呼ぶ所以は、御本尊様への不変不動の信があるからです。

 学会員が池田本尊を拝むようになって十五年、日蓮大聖人様を悪しく敬う謗法により、悲惨な現象が充満しております。謗法を止め一刻も早く正しい御本尊様に戻ることを願わずにはおられません。また、その手助けするのが私たち富士大石寺法華講衆の役目であることを忘れてはなりません。変わらないことを誇りに、折伏の手をゆるめずに進むときです。

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日蓮正宗向陽山佛乗寺