日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年6月8日 御報恩御講拝読御書

上野殿御返事

上野殿御返事 (平成新編御書七四六頁)
文永一一年一一月一一日 五三歳

上野殿御返事 (御書七四六頁)

この文は大事の事どもかきて候 よくよく人によませてきこしめせ 人もそしり候へ、ものともおもはぬ法 師等なり


【通解】

 この手紙には非常に大切な事を書きました。周りの人たちに読ませて下さい。また聞かせて下さい。日蓮の信仰をする人々を悪く言う人もおります。しかし、そのような悪口に惑わされてはなりません。私たちはどのような事があろうとも、御本尊様の信心を貫かねばならない法師とそれに連なる弟子檀那です。


 当抄は、文永十一年(一二七四年)十一月十一日、大聖人様五十三歳のとき、身延において認められたものです。御真蹟は伝えられておりませんが、日興上人が写されたものが総本山に所蔵されております。その写本には、年号、月日とともに、甲戌(きのえいぬ)と干支が記されております。この写本が伝えられていることにより、間違いなく大聖人様がお認めになり、南条時光に与えられたものであることがハッキリします。日興上人が大聖人様の仏法を後世に伝えるために周到な配慮をされていることが拝せられ、ただただ有り難い限りです。

 当抄が認められた文永十一年は、御化導の上で節目となった年です。

『種々御振舞御書』に

@ 四月八日平左衛門尉に見参しぬ。さきにはにるべくもなく威儀を和らげてたゞしくする上云々(一〇六七頁)

とあります。この御文は、文永十一年三月二十六日に佐渡から鎌倉にお帰りになり、同四月八日、平左衛門尉頼綱をはじめとする、鎌倉幕府の権力者たちと対面された時の様子を述べられたものです。三年前の佐渡流罪の時には、大聖人様の命を奪おうとした平左衛門尉や幕府の高官たちでしたが、この時には「威儀を和らげ」とありますように、態度を豹変させ、

A 或入道は念仏をとふ、或俗は真言をとふ、或人は禅をとふ、平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ。一々に経文を引きて申す(一〇六七頁)

と、念仏宗や真言宗や禅宗等、また爾前教の得道について教えを請いました。大聖人様は経文を引かれ、法華経のみが即身成仏の教えであることを説き、彼らを折伏されました。また、平左衛門尉が、

B 平左衛門尉は上の御使ひの様にて、大蒙古国はいつか渡り候べきと申す(一〇六七頁)

と、蒙古からの攻撃はいつになるでしょうか、と執権が尋ねている、といいました。これに対して、大聖人様は

C 四月の八日、平左衛門尉に見参してやうやうの事申したりし中に、今年は蒙古は一定よすべしと申しぬ(『報恩抄』・一〇三〇頁)

と、今年中には蒙古の来襲はあるでしょう、とお答えになられております。大聖人様の仰せの通り、蒙古の大軍は、壱岐や対馬を襲って大きな被害を与え、九州に押し寄せたのは、半年後の十月五日のことでした。

 当時、幕府の高官たちは他国侵逼難に怯え、武士を西国に派遣し護りを固めるばかりではなく、諸宗の寺社に蒙古調伏の祈祷を命じ来襲に備えておりました。また、

D 大聖人は法光寺禅門、西の御門の東郷入道屋形の跡に坊作って帰依せんとの給う(『御伝土代』聖典五九七頁)

と、大聖人様に、お寺を造って寄進するから、幕府のいうことを聞いてください、と懐柔しようとしたのです。これは、総本山第四世・日道上人のお書き下さった『御伝土代(ごでんどだい)』という、門下で一番古い大聖人様の伝記に記されていることです。ちなみに、「西の御門の東郷入道屋形の跡」は鶴ケ岡八幡宮の東にあたる地で、鎌倉の中心地ともいえるところです。このことからも、幕府が他国からの侵略を予測された大聖人様を恐れていたことが知れます。

 文応元年(一二六〇年)七月十六日に、『立正安国論』を認め時の執権を折伏し、謗法を改めなければ、他国侵逼難が起こることを説かれた十四年後、予言は現実のものとなり、幕府はそれまでの態度を一変させ、大聖人様に国の安泰を祈って戴きたいと願うのです。

 しかし、大聖人様は、

E 但、唯以一大事の南無妙法蓮華経を弘通するを本とせり。世間法とは、国王大臣より所領をたまはり官位をたまふ共、夫には染せられず、謗法の供養を受けざるを以て不染世間法とは云ふなり(『御講聞書』・一八四七頁)

と、日蓮は南無妙法蓮華経の教えを弘めることが願であり、そのために出現したのである。世間的には、国王や大臣から、所領を与える、官位を差し上げましょう、といわれることが名誉であり、そのことを願としているが、仏法の上からは、そのようなことに染まってはならない。謗法の供養を受けないことが世間の法に染まらないことであり、世間の法を超越する仏の教えなのである、と仰せになり、謗法厳誡の御精神から、幕府による懐柔作を退け、日興上人のご縁により、身延の山に入られたのが五月です。そして、十月に蒙古の来襲があり、一月後の十一月に当抄が認められております。

 さて、拝読の箇所にで、「大事の事ども」とあります。その「大事な事ども」とは、
一、日蓮大聖人様が御本仏であられること。
二、日蓮大聖人様の仰せを信じ、難を恐れずに使命を果たすこと。
の二点です。

一、の日蓮大聖人様が御本仏であられることは、

F 仏を一劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給ふ(七四五頁)

との御文です。これは法華経法師品第十四の経文を引用されてこのように示されています。意味は、仏様を一劫という長い間御供養する功徳よりも、末法の世の中で、法華経を弘通することで人々から迫害を受ける行者を供養することがより大きな功徳を受けることが出来る、ということです。

 このように、御供養することで受けられる功徳の勝劣をもって、真の仏様が何方であるかを示される箇所です。また、末法の法華経の行者(御本尊様)に御供養をする私たちの功徳の貴さを教えられています。

『撰時抄』には、

G 日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもってすい(推)せよ。漢土・月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず(八六四頁)

と示されているように、法華経の行者は日蓮大聖人様以外にはありません。したがって、南条時光が日蓮大聖人様をお守りすることは計り知れない功徳を受けることが出来ると教えて下さり、外護の信心を御指南下さるのです。

 ところで、日蓮大聖人様を法華経の行者であることを理解しても、御本仏であられることを知らない人たちが大勢います。いわゆる身延派等の人たちです。彼の人々は、法華経の行者は上行菩薩様の再誕である、として、日蓮大聖人様を、日蓮大菩薩と尊称します。しかしこの尊称は、大聖人様の本地、すなわち本来の姿を覆い隠すものですから尊称ではなく貶めていることになります。

H かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし(『種々御振舞御書』一〇六六頁)

と仰せと付合するするものです。

 日蓮正宗では、日蓮大聖人様の御当体に三義ある、と拝します。
 一には、凡夫の日蓮
 二には、上行再誕の日蓮
 三には、久遠本仏の日蓮
です。

 はじめの「凡夫の御時の日蓮」とは、お生まれになってより三十二歳の宗旨建立までです。御書には「天台の沙門」と名乗られ、あるいは「虚空蔵菩薩に願いを立て」(『善無畏三蔵抄』・四三六頁)等述べられるのは示同凡夫のお姿でありこのことを「凡夫の日蓮」拝するのです。

 次に「上行再誕の日蓮」とは、立宗宣言を遊ばされてより竜の口において発迹顕本をされるまでの間を申し上げます。

I 皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり(『諸法実相抄』 六六六頁)

との御指南の如くです。したがって、立宗宣言の後は上行菩薩様のお立場を表されたと拝するのです。

 三番目の、「久遠本仏」が他宗他門には理解の出来ないところです。しかし、『開目抄』では、

J 日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからずみん人、いかにをぢぬらむ。此は釈迦・多宝十方の諸仏の未来日本国、当世をうつし給ふ明鏡なり。かたみともみるべし(五六三頁)

と、文永八年九月十二日の竜の口の法難において首をはねられた時に、上行菩薩の再誕であるお立場から、久遠の本仏として御出現された、と明示されております。「頚はねられぬ」とは、現身の命ではない、ということです。「魂魄」つまり久遠の仏としての生命が佐渡にいたってこの御書を書いている、ということです。つまり、上行菩薩様のお立場からさらに深く入られた、という意味なのです。そうでなければ、「頚はねられる。此は魂魄佐渡の国にいたりて」とは仰せになりません。

その上で、『御義口伝』の、

K されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云ふなり(一七六五頁)

L 本尊と者法華経の行者の一身の当體也。其の宝号を南無妙法蓮華経と云うと云々(一七七三頁)

を拝するならば、日蓮大聖人様が御本仏であられることは疑う余地のないところです。なんとなれば、末法の法華経の行者は日蓮大聖人様以外にはおられません。法華経ゆえに受難された方が他にいないことを以て証明といたします。

さらに、『撰時抄』に、 

M 外典に云はく、未萠をしるを聖人という。内典に云はく、三世を知るを聖人という。余に三度のかうみゃうあり。一つには去にし文応元年太歳庚申七月十六日に立正安国論を最明寺殿に奏したてまつりし時、宿谷の入道に向かって云はく、禅宗と念仏宗とを失ひ給ふべしと申させ給へ。此の事を御用ひなきならば、此の一門より事をこりて他国にせめられさせ給ふべし。二つには(乃至)此の三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。只偏に釈迦如来の御神我が身に入りかわせ給ひけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる(八六七頁)

の御文は、大聖人ご自身が、過去・現在・未来の三世を見通すことのできる聖人である、と示されます。その証拠として、三度の高名を挙げられます。これもまた、日蓮大聖人様が御本仏であられることの証明です。

 以上述べましたように、日蓮大聖人様が末法の法華経の行者であり、それはそのまま久遠の本仏であられることは釈尊の説いた経文の上(文証・理証)からも、現実のお姿の上(現証)からも明らかです。ゆえに、「大事の事どもかきて候」とは、日蓮が末法の本仏であることを書き表した、と仰せになる意なのです。

 もう一つの大事なことは、日蓮大聖人様と同じ立場に私たちを引き上げて下さっていることです。「法師等」の「法師」は申すまでもなく日蓮大聖人様です。さらに、大聖人様よりの御付嘱をお受けになった日興上人以来、法統を連綿と御所時遊ばされる代々の御法主上人が「法師」のお立場です。そして私たちが弟子檀那が「等」にあたります。ですから、大聖人様の弟子檀那の一分にある、すなわち末法の御本仏の弟子檀那の立場があなた達なのです、という意で、「大事な事ども」なのです。

N 総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ。さだにも候はゞ、釈迦・多宝・十方の分身・十羅刹も御守り候べし(『四菩薩造立抄』一三七一頁)

と仰せです。「日蓮が如くにし候へ」とあります。「し候へ」の「し」は「候へ(しなさい)」を強調する「し」です。ですから、日蓮のように御本尊様への修行を強盛にしなさい、ということです。日蓮と同じように折伏の修行をするならば、必ず仏様からの加護があります、と仰せです。ですから、折伏をすれば願いが叶う、と日蓮正宗では指導するのです。そしてそれは日蓮大聖人様のお言葉なのです。繰り返しますが、このことを、「大事な事どもかきて候」と南条時光を通して平成の私たちに教えて下さっているのです。

 いま私たちは、御法主日如上人の御指南のままに、世界広布に向かっての第一歩を踏み出しています。何故、日蓮大聖人様が『立正安国論』を著され、私たちに法華一仏乗の信仰を教えて下さったのか。それは、危機的状況の中にいながら、そのことに気づかない凡夫に警鐘を鳴らし、救済するためです。鎌倉の時代より七百五十年を歴た現在、危機的状況はその度合いをますます深めています。御在世のころよりもはるかに大きな、「科学」という力を持った人類は、自然界への影響の度合いを強めております。その結果、過去には考えられなかったような人為的災害が頻発するようになりました。一見自然災害のようであっても、実のところ人為的なものであった、ということが少なくありません。まさに、経文に説かれる五濁悪世の姿そのものです。

 このような時代にあって、私たちの小さな力ではどうすることも出来ない、という諦め、そして傍観者になるか、小さな力であっても、出来ることがある、と主体的に生きるか、どちらが幸せでしょう。

 当抄での

O 人もそしり候へ、ものともおもはぬ法師等なり

の意をいま一歩深く拝し、大聖人は、傍観者であってはならない、主体者たれ、と私たちを励まして下さっている、と捉え、行動を起こす時が今です。行動とはいうまでもなく自行化他のご信心です。折伏行は、「法師等」に加わることができる修行なのです。いつの時代でも、どのようなところでも、主体的な生き方こそ真の幸福を築く根本です。しかし、それは簡単ではありません。阻もうとする用きが必ず生まれます。外からも心の中からも。それでも、己が信ずる道を貫くことにより真の幸福を掴み、周りをも幸福に導くことが出来る、との教えです。この教えを固く守り、唱題を重ね何事においても、主体的に、そして希望を持って進んでまいりましょう。

 六月十五日は、日如上人・日顕上人が、「さいたまアリーナ」にお出ましです。我らもお供しましょう。

以上

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日蓮正宗向陽山佛乗寺