日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年6月1日 広布唱題会

開目抄

〜 大願 〜

開目抄(御書五四一頁)
文永九年二月 五一歳

開目抄 (新編御書五四一頁)

御勘気をかほれば、いよいよ悦びをますべし。例せば小乗の菩薩の未断惑なるが願兼於業と申して、つくりたくなき罪なれども、父母等の地獄に堕ちて大苦をうくるを見て、かたのごとく其の業を造りて、願って地獄に堕ちて苦しむに同じ。苦に代はれるを悦びとするがごとし。此も又かくのごとし。当時の責めはたうべくもなけれども、未来の悪道を脱すらんとをもえば悦ぶなり


 御法主日如上人の大導師のもと、総本山で執り行われる唱題行にあわせて、佛乗寺での唱題行も六十五回を迎えました。こうして唱題の出来る有り難さを感謝するとともに、ミャンマーや四川の方々のことを思うと、胸が痛くなります。私たちに出来る、ご本尊に祈ること、を疎かにせず励んでまいりましょう。

 拝読の御書は、佐渡にある大聖人様が、何故このような苦しみをうけなくてはならないのか、というご自身の境界から、自問自答を通しての御指南です。

 通解をいたしますと、鎌倉幕府からとがめをうけ、佐渡に流罪の身となったことは、この上もない喜びである。例を挙げれば、小乗の菩薩が、衆生を救うために煩悩を断じなかったのと同じである。「願兼於業」は願は業を兼ねる、と読み、菩薩が修行の中で、自ら悪業をつくって来世に悪所に生まれ御本尊の教えを弘通することをいう。この教えは法華経の法師品に説かれるもので、悪世の衆生を哀れみ、薬王菩薩は自らの清浄の業の報を捨てて、願って悪世に生を受け衆生を導く姿を天台大師が釈されたものである。これと同じように、日蓮も、悪世の鎌倉に願って生を受け、その中にあって衆生を導くのである。菩薩が、苦しみを受けることを喜びとしたように、日蓮も同じ心である。現在の苦しみは耐えることが出来ないほど苦しいものであるが、しかし、未来に悪道に堕ち、さらに大きな苦しみをうけることを思えば、今の苦しみは喜びである、となります。

 この、「願兼於業」の御文は、日蓮大聖人様が、私たちを救うために、悪業をつくってお出まし下さった御本仏であられることを明らかにされたものです。大聖人様ご自身が、苦難に遭遇された体験を通しての御指南です。私たちが悪世を生き抜くための、御本仏からの励ましのお言葉です。

 例えば、信心をしているのに生活が良くならないのは何故。お題目を唱えているのに仕事がうまくいかないのは何故。折伏をしているのに病気になるのは何故。これらの疑問が頭をよぎるときがあります。病気やけがは生きている限り避けようがありません。生きていれば多くの苦しみがともないます。そのような境遇になったときに、どのようにすれば問題を解決して良き方向に進むことが出来るか、その方法を教えて下さり実際に道を開いて下さっているのが日蓮大聖人様の教えなのです。

 病気で入院をしたとき、病気になったのは何故、と疑問を持つのは誰でもあることです。そして、困った困ったとなる人が一種類。もう一種類は、この開目抄での御指南を拝したことのある人が行き着く境界です。どちらがよい結果を生むかは言うまでもありません。

 病気になって入院したのは、同じ病気で苦しむ人を救うために願ってここに来たのである、苦しいのは自分だけではない。でも自分には御本尊様という絶対の薬がある、日蓮大聖人様に見まもられている、だから誰よりも有り難いのだ、と言う心を一瞬でももつことが出来たならば、過去の罪障を消滅して未来に大きな喜びを受けることが出来るようになるのです。そして、苦しみの原因を理解していない人々に、日蓮正宗富士大石寺に七百五十年の間少しも濁らずに伝えられた末法の真実の教えである大御本尊様に、「南無妙法蓮華経」と唱えさせることが、「願兼於業」の貴い使命を果たすことになります。この使命を果たすことにより、さらに大きな御加護を受けることが出来るのは間違いのないことです。

 ですから、病気などの苦しみも、私たちの心を成長させてくれる時であると捉え、希望をもって進むことが一切を解決する道です。

 日蓮大聖人様の教えを、生きた仏法と申します。生きた仏法と拝するか否かは信仰する私たちにあります。日興上人の、「御抄を心肝に染め、極理を師伝し」との御指南のままに励む私たちは、生きた仏法を実践していることになります。固く信じ共どもに精進を。

 六月十五日のさいたまアリーナでのプレ大会には、みなで元気に参加しましょう。そして、御法主上人の驥尾に附し、幸福の道を開いてまいりましょう。

文責編集部 転載複写等禁止



日蓮正宗向陽山佛乗寺