日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年7月13日 御報恩御講拝読御書

始聞仏乗義

始聞仏乗義 (平成新編御書一二〇九頁頁)
建治四年二月二八日 五七歳

始聞仏乗義 (御書一二〇九頁)

問ふ、是くの如く之を聞いて何の益有らんや。答へて云はく、始めて法華経を聞くなり。妙楽云はく「若し三道即ち是三徳と信ぜば尚能く二死の河を度る。況んや三界をや」云云。末代の凡夫此の法門を聞かば、唯我一人のみ成仏するに非ず、父母も又即身成仏せん。此第一の孝養なり。


【通解】

質問をいたします。このような大切な法門を聞くことの利益はどのようなものでしょうか。
答えます。(これまでに説いてきた相対種の法門を聞くことにより)はじめて法華経の教えを聴聞したことになり、そのことによって大きな利益を受けることができるのです。そのことを、妙楽大師は摩訶止観輔行伝弘決の中で、「もし三道がそのまま三徳であると信ずることができるならば、その人は二種類の生死の河さえも渡ることができるのである。ましてや三界六道の輪廻の苦しみを解決できないわけはない」と説かれています。ゆえに、末代の凡夫である私たちが、法華経の中で最も大切な、「相対種」の教えを聴聞したならば、自分ばかりが成仏するのではなく、父母も即身成仏の功徳を受けることが叶うのです。したがって、法華経を聴聞することが第一の親孝行です。


【語句】

○是の如く之を聞いて=このようなことを聞いて、という意。このようなこととは「相対種の開会」のこと。相対種の開会は天台大師が摩訶止観で法華三昧を説く中において「就類種の開会」と「相対種開会」の二種があると説かれている。種とは法華経の種。法華経の種とは、爾前権教の種とは違い、仏になるための種。成仏をすることのできる種のこと。その種に「就類種」と「相対種」の二種があるとされる。開会とは、二つあるいは三つに別れたものを、ひとたびは個別に判釈を加えるが、その後に一つのものに統合することをいう。就類種は類に就く意で、類とは善のこと。ここでいう善とは、法華経に説かれる大善をもってみれば、世間一般で行われている善、これを小善というが、それらも大善に到達するためのものである、との意。私たちの立場でいえば、富士大石寺の大御本尊様に南無妙法蓮華経と唱へ、広布を目指して修行に励んでいるならば、どのような小さな善であっても、大善(成仏の種)になる、ということ。善(種)は同類であっても結果として表れるものには大きな違いがあることから「就類種」とされている。ただし、あくまでも正法たる大御本尊様の教えから離れての「就類種」はないことに留意しなければならない。

「相対種」は、相対する種、という意。相い対するものは、煩悩・業・苦の三道と、法身・般若・解脱の三徳など。貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろか)の三毒が煩悩の根本にあり、この三毒が成仏と不離の関係にある、というのが「相対種」の教え。不思議なことであり、私たち凡夫には信じ難いことであるが、天台が説き、妙楽が示し、日蓮大聖人様が引用して仰せになるのであるから、この仰せを信じないわけにはいかない。このことを広くいえば「法華経の一念三千の教え」という。この法華経の哲理を、「毒を変じて薬となす」と龍樹菩薩は般若経の註釈書である「大智度論」の中で説いている。

さらにいえば、善と悪という相対するものも、御本尊様の前にあってはすべてが善に転換する義を示されている。地獄界の中にあって仏界を現ずることができるのもこの原理からである。人界の仏界もまたしかりである。

「相対種の開会」を、実践面に約すならば、次のようなことがいえる。例えば病を得たときである。みな生きている限りは病から逃れることはできない。病は「生・老・病・死」の四苦の一つであり、苦しみの根本的なものの一つである。この「病気になる」という現証にあったとき、誰しも、生への希望をもち、医者にもかかり薬も飲み、平癒したいと努力はするであろう。しかしながら、人の心はときによって揺れ動くものであり、ある時には、このような病気になってもう駄目だと諦め、病魔の前にひれ伏す心にもなるであろう。また反対に、病なんかに負けてはおられない、と病魔に立ち向かう強い心をもって、家族や友人知人に励まされ、医師や薬の力を借りて病魔を克服しようとする場面もあるが、多くは、「なぜ私が病気に」と思う心に支配され、病気はますます重篤になる。往々にして凡夫の心はそのような考えに流され、得難き人身をむにしがちである。

このようなときに、「相対種の開会」を知っているならば、「この病は仏のおんはからい」と信心をもって受けとめ、「病ありて仏になり候」と、病になった意義を自らの中に見つけることができるようになるのである。そのことにより、得難き人身を悟り、唱題を重ね折伏を行じて罪障を消滅し病魔に打ち勝ち、過去世からの宿命を善きものに転換するエネルギーにすことができるのである。

病気や怪我ばかりではなく、人間関係や、経済的なこと、また仕事などの上からも、「相対種の開会」を知っているか否かで、結果は大きく違ってくるのである。

このようなことから、「始めて法華経を聞くなり」とされるのである。ただ単に法華経を聞いたのではなく、日々の生活の中に約して用いることが法華経をを説かれた意義であり、法華経が生きた教えといわれるゆえんである。

もう一点、折伏に約して拝するならば、社会的な地位や経済的な面、あるいは年齢や性別等の相対するものの中に、仏種を見て折伏を行ずることである。私たちは仏様や菩薩方の慈悲は持ち合わせていないかもしれない。しかし、信心で培った勇気はもっている。その勇気を奮い立たせることが慈悲につながり折伏に向かわせ、自らも周りも成仏の功徳を受けることができるようになるのである。そのことを、「相対種の開会」は示している。

○三道=煩悩道と業道と苦道の三種。煩悩は私たちの身と心を惑わすもので、貪りの心や怒りの心や愚かな心がその顕著な姿として現れる。業は煩悩から起る善悪の行い。善悪とあるところに仏法の深い哲理がある。すなわち、現れた行為が、悪い行いと見ることもできる場合もあり、善い行いと見ることもできる場合もあるという不離の関係をいう。ここに、煩悩を「悪」と決めつけることはできない所以がある。苦は三界六道の苦しみのこと。これは、煩悩から悪業が起こり、さらにそのことにより苦しみの中に堕ちることである。苦しみがまた煩悩を起こし、煩悩により悪業を作り苦に沈む姿を、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人界・天界の六道を出ることなく回る六道輪廻という。

○三徳=法身と般若と解脱の三種。法身は仏が悟られた真理。般若はその真理を悟るための智慧。解脱は法身と般若の二種の徳が一つになり仏としての姿を顕された時をいう。

大聖人様は「当体義抄」で
「正直に方便を捨て但法華経を信じ、南無妙法蓮華経と唱ふる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕はれ、其の人の所住の処は常寂光土なり」
と示されている。(三観、三諦ともに空・仮・中のことであり、仏様の悟りを意味する。「当体義抄」では、御本尊様に祈ることで、凡夫が仏になることが叶うことを、このような言葉で教えて下さった)

○二死の河を渡る=二死の二は凡夫と聖者の二種。死は生死のこと。河を渡るとは仏になることを意味する。

○三界六道=三界は欲界、色界、無色界のことで、生き死にを繰り返す迷いの衆生の住処。欲界は欲望の世界。色界は物質だけの世界。無色界は精神の世界。六道は十界の中の仏界・菩薩界・縁覚界・声聞界の四聖を除く、天界・人界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界のこと。

○この法門=「相対種」の法門。この法門を聞くことにより仏と成ることができる、つまり始めて仏乗(成仏の義)を聞いて仏になることが叶う、との意味から『始聞仏乗義』と御書名が付けられた。

○父母も又即身成仏せん=御本尊様を持つことが最も大切な親孝行であることを示される。早く父親と死に別れた南条時光には、「されば法華経を持つ人は父と母との恩を報ずるなり。我が心には報ずると思はねども、此の経の力にて報ずるなり」(上野殿御返事・九二三頁)と仰せになり、時光の信心そのものが親孝行なのである、と励まされている。


【拝読の手引き】

当抄の冒頭に
「青鳧七結下州より甲州に送らる。其の御志悲母の第三年に相当たる御孝養なり」
とあります。この御文から、富木常忍がお母様の三回忌を日蓮大聖人様に願い出られたときの御返事であることがわかります。「青鳧七結」とは御供養のことです。当時は穴の開いたお金に紐を通して一結二結と勘定しておりました。一結が約百枚、ですから七百枚ということです。お母様も日蓮大聖人様のご信心をされており、亡くなった後は大聖人様のもとにご遺骨をお持ちになって御回向をしていただいたことが『忘持経事』という御書から明らかです。

 この願い出により、大聖人様は、富木常忍のお母様の三回忌の御回向をして下さったのです。当抄にはどのよう形で御回向下さったかは示されておりませんが、『中興入道御消息』や『草木成仏口決』を拝するならば、読経唱題ばかりではなく、三回忌のお塔婆を建立されたことも間違いのないところです。わざわざお書きになっていないことが反対にそのことを表しています。

 つまり、『中興入道御消息』では、
「此より後々の御そとばにも法華経の題目を顕はし給へ」(一四三二頁)
と仰せになり、追善供養のときにはお題目を認めた塔婆を建立することを御教示されております。さらに、『草木成仏口決』では、
「我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは、死の成仏にして草木成仏なり。(乃至)草木成仏は死人の成仏なり」(五二二頁)
と仰せになり、塔婆供養の意義を明確に示してくださっているからです。

 このような例から、富木常忍のお母様の三回忌も塔婆を建立して追善供養が執り行われていたことがわかるのです。いうまでもなく、私たち富士大石寺の信仰は、大聖人様が教えて下さったそのままを変わらずに行う、という信仰です。

「総じて日蓮が弟子と云って法華経を修行せん人々は日蓮が如くにし候へ」(一三七〇頁)
との教えを護り通すならば成仏は疑いありません。貫いてまいりましょう。厳しいから功徳も大きいのです。

 夏を迎えました。暑い暑いと愚痴るか、暑いから美味しいお米や果物ができる、と「相対種の開会」を応用するか。豊かな心になるか否かの分岐点は、やはりご信心ご信心。ご精進をお祈りいたします。

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