日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年11月8・9日 御報恩御講拝読御書

諸法実相抄

諸法実相抄 (平成新編御書六六六頁)
文永一〇年五月一〇日 五二歳

諸法実相抄 (御書六六六頁)

いかにも今度信心をいたして法華経の行者にてとをり、日蓮が一門となりとをし給ふべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや。経に云はく「我久遠より来是等の衆を教化す」とは是なり。末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり。日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人三人百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし。是あに地涌の義に非ずや。


『諸法実相抄』とは

『諸法実相抄』は文永十年(一二七三年)五月十日、佐渡において認められ弟子の最蓮房に与えられたものです。大聖人様が五十二歳の時です。

内容は、最蓮房が法華経方便品第二に説かれている「諸法実相」についてお伺いしたことに対する御指南です。三段に分けて拝することができます。最初に方便品の「諸法実相乃至本末究竟等」の文について、妙法蓮華経が根本の法であり、そのことは天台大師や伝教大師も知ってはいたが説かれることはなかった。ただ日蓮大聖人様お一人のみが説き顕したものである、と仰せです。

次に、先の大聖人様のお立場の上から、大聖人様に難を加えることの罪の大きさや、反対に大聖人様に御供養をしたり、弟子として折伏に励む功徳の大きさを述べられています。

次に、本日拝読の箇所から以下は、大聖人様と同じ心、すなわち、広宣流布の達成を確信し、法華経の教えのままに修業をするならば仏になることが叶うのであり、どのような苦難に遭遇しようとも仏になることの喜びがあるから辛いことはない、と仰せになります。最後に、
「此の文には日蓮が大事の法門どもかきて候ぞ。よくよく見ほどかせ給へ、意得させ給ふべし。一閻浮提第一の御本尊を信じさせ給へ。あひかまへて、あひかまへて、信心つよく候ふて三仏の守護をかうむらせ給ふべし。行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」
と述べられ、御本尊様を信じて精進するならば必ず仏様の御加護を賜ることが叶うとされ、さらに一に信、二に行、三に学の御指南をされ私たちの信心のを励ましてくださっております。


【訳】

 どのようなことがあっても、この度は信心を強盛にして法華経の行者として信仰を貫き、日蓮の一門として退転なく信心に励みなさい。

 日蓮と同じ心であればその人は地涌の菩薩と同じです。地涌の菩薩と同じであるということは、釈尊から久遠の昔に教化を受けた弟子であることです。法華経の涌出品には「私は久遠の昔よりこれらの衆生を導いてきました」と説かれるのはこのことです。

 末法という時代において、妙法蓮華経の教えを弘めるものは、男性であっても女性であっても同じ地涌の菩薩です。何故ならば、地涌の菩薩でなければ唱えることのできない妙法蓮華経の題目だからです。

 日蓮はただ一人この南無妙法蓮華經の題目を唱へはじめ、二人・三人・百人と次第次第に題目を唱える人々が増えてまいりました。未来も同じようにお題目を唱える人々が増えてゆくことは間違いがありません。まさに法華経の涌出品に説かれるように、大地から無数の大菩薩方が出てこられる、と説かれたそのままの姿が必ず現実になります。


【語句の意】

○日蓮と同意=立正安国の精神を堅く堅持し、自他共に幸福になることを目標に進むこと。

○地涌の菩薩=法華経涌出品第十五において、釈尊が久遠の昔に仏になったことを明かすために大地より涌き出た大菩薩様のこと。その数は六万恒河沙という。恒河沙はガンジス川の砂の数を意味し、その上に六万を付け、無量、無数、つまり数えることのできない多くの大菩薩が出現されたことを示している。この無量の地涌の菩薩の唱導の師として、上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩がおり、そのなかでも上首として上行菩薩様がおわすのである。さらに、法華経の神力品でこの上行菩薩様に末法の世において妙法蓮華経の弘通を託された。このようにお経文に説かれるこれらのことから、大聖人様は末法に上行菩薩様の再誕としてご自身が出現したのである、と当抄で仰せである。また、『三大秘法抄』の「この三大秘法は二千余年の当初、地涌千界の上首として、日蓮確かに教主大覚世尊より口決せし相承なり」(一五九五頁)と同じな意味で仰せになる。日蓮正宗ではさらにその一段高いところに日蓮大聖人様を拝する宗旨である。それは、『百六箇抄』に末法の凡夫に成仏の教えを説くお立場から、「下種の法華経の教主の本迹、自受用身は本、上行日蓮は釈なり」(一六九五頁)の御文で仰せの如くである。つまり、末法に出現した上行菩薩様としての日蓮大聖人様の御身は迹仏(仮りの仏)であり、本仏(本当の仏)は久遠元初の自受用報身如来様である、と拝するのである。この百六箇抄の御文は日蓮大聖人様を末法の御本仏と拝する衣文の一つである。


お寺のハナミズキの紅葉も終わりに近づき落ち葉になりつつあります。綺麗な色で私たちの目を楽しませ、やがて落ち葉となる葉の横を見ると、白い小さく光るものが見えます。光る物のの正体は蕾でした。すでに春に芽吹くための準備ができていることに生命の力強さを感じます。花を散らせばそこには実が残り、実が落ちればその中から種が芽を出しやがて大きく成長してまた花を咲かせ実を付けます。このように、非情といわれる植物でさえ次に備えて行動を起こしております。私たちも七百五十年の佳節に向かって準備を。

寒くなります。風邪の流行も例年になく早いようです。折伏は元気のもとです。風邪も寒さも吹っ飛ばしましょう。

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