日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成20年12月7日 広布唱題会

法華初心成仏抄

〜 祈り 〜

法華初心成仏抄(御書一三一四頁)
弘安元年 五七歳

法華初心成仏抄 (新編御書一三一四頁)

譬へばよき火打とよき石のかどとよきほくちと此の三つ寄り合ひて火を用ゆるなり。祈りも又是くの如し。よき師とよき檀那とよき法と、此の三つ寄り合ひて祈りを成就し、国土の大難をも払ふべき者なり。よき師とは、指したる世間の失無くして、聊(いささか)のへつらふことなく、少欲知足にして慈悲あらん僧の、経文に任せて法華経を読み持ちて人をも勧めて持たせん僧をば、仏は一切の僧の中に吉き第一の法師なりと讃められたり。吉き檀那とは、貴人にもよらず賤人をもにくまず、上にもよらず下をもいやしまず、一切人をば用ひずして、一切経の中に法華経を持たん人をば、一切の人の中に吉き人なりと仏は説き給へり。吉き法とは、此の法華経を最為第一の法と説かれたり。


 大聖人様は火打ち石を例にとって「祈り」について教えて下さっております。御文の「よき師」とは日蓮大聖人様の御事です。日蓮大聖人様より唯授一人の血脈相承をお受けになった日興上人です。さらに代々の御法主上人です。現在では六十八世日如上人が「よき師」のお立場にあられます。

 次の「よき檀那」は、身分の高い人のいうことだから信じるとか、反対に身分の低い人の言うことは信じないというように、相手を見て物事を判断するようなこともなく、人師論師のいうことを信じるのでもなく、全ての教えの中から法華経だけを信じる人であるとされます。

 最後の「よき法」は、法華経であり、現在の私たちの立場では文底の法華経つまり南無妙法蓮華經であることは申すまでもありません。

 この三つがそろって初めて祈りが叶うのである、という大聖人様の教えです。ところが、同じように南無妙法蓮華経とお題目を唱えていても、身延派では「よき師」はインドに生まれた釈尊です。「よき法」は文上の法華経です。従って「よき檀那」にはなれません。創価学会は池田大作を師とし、池田大作の作成したニセ本尊を拝んでおります。三つどころか一つとして正しいものはありません。真面目に信仰をしていたとしても、大聖人様の仰せになる三つがそろった信仰ではないのです。ゆえに、祈りは成就するどころか、悪しき現証となって身を滅ぼすことになるのです。

 邪宗教となり、日蓮正宗から破門された創価学会に姿を変えた第六天の魔王の暗躍によって、日本どころか世界中が苦境に陥っている現状は、『種々御振舞御書』で示される
「かゝる日蓮を用ひぬるともあしくうやまはゞ国亡ぶべし」(一〇六六頁)
そのままです。

 悪世末法の様相を正すことのできるのは「此の三つ寄り合ひて」と大聖人様が仰せになるままの信心をしている我が日蓮正宗のみであり、私たちの祈りが成就しないはずはありません。

 さらに当抄の「国土の大難をも払ふべき者なり」との仰せは、地球温暖化に象徴されるように、衆生世間と国土世間の調和が崩れている今日、ことのほか重要な教えです。国土世間に表れる自然災害を含めあらゆる災いの元は、その国に住む人々の心から起こり、人々が正しい信仰を持ち、自行化他に励むところは安穏な国土、平和な社会となる、とのお言葉だからです。

 自然災害が私たちの心と直接関係している、などといっても素直に信じることのできる人は少ないと思います。ところが、大集経や金光明経などのお経文にはそのように説かれているのです。ですから信じないわけにはまいりません。仏様のお言葉を疑うよりも強く信じ、行ずることです。『立正安国論』で大聖人様が仰せになることは、正直な心で、筋道の通った信仰をすれば、国土・社会の一切が幸福になる、ということです。

 明年はその『立正安国論』が世に示されてより七五〇年の節目にあたります。五〇年に一度の「時」に巡り会うことができた事を喜び、大聖人様のお使いとして、「一文一句なりともかたらせ給ふべし」(『諸法実相抄』六六八頁)を実践する「時」です。

 難しく考えることはありません。「一文」とは一つの文です。「一句」とは一言です。御書の全てを話すことはできなくとも、お題目を唱えて有り難い、と思った事を一言相手に伝えることが大聖人様のお使いをすることになります。それが『立正安国論』を我が身で読み実践することです。これによって成仏の功徳を受けることができます。安国が現実になるのです。励みましょう。

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