日蓮大聖人御書拝読と御法話

平成21年3月7・8日 御報恩御講拝読御書

新池殿御消息

新池殿御消息 (平成新編御書一三六三頁)
弘安二年五月二日 五八歳

新池殿御消息 (御書一三六三頁)

八木三石送り給び候。今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて、南無妙法蓮華経と只一遍唱へまいらせ候ひ畢んぬ。いとをしみの御子を、霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。(中略)

 智者聖人は又我好し我勝れたりと申し、本師の跡と申し、所領と申し、名聞利養を重くしてまめやかに、道心は軽し。仏法はひがさまに心得て愚癡の人なり、謗法の人なりと、言をも惜しまず人をも憚らず「当に知るべし、是の人は仏法の中の怨なり」の金言を恐れて「我は是世尊の使ひなり、衆に処するに畏るゝ処無し」と云ふ文に任せていたくせむる間、「未だ得ざるを為れ得たりと謂ひ、我慢の心充満せん」の人々争でかにくみ嫉まざらんや。されば日蓮程天神七代・地神五代・人王九十余代にいまだ此程法華経の故に三類の敵人にあだまれたる者なきなり。

 かゝる上下万人一同のにくまれ者にて候に、此まで御渡り候ひし事おぼろげの縁にはあらず。宿世の父母か、昔の兄弟にておはしける故に思ひ付かせ給ふか。又過去に法華経の縁深くして、今度仏にならせ給ふべきたねの熟せるかの故に、在俗の身として世間ひまなき人の公事のひまに思ひ出ださせ給ひけるやらん。


【通解】

 お米を三石、確かに拝受いたしました。ただいま一乗妙法蓮華経の御宝前にお供えし、南無妙法蓮華経とお題目を唱へました。貴方の最愛の御子を、仏様がおいでになる清浄な国にお送りし、仏様と共に住することが決定するように、と願っての題目です。

 智者や聖人といわれる者であっても、我は好ましい者である、我は勝れている者である、といって、本師の跡や所領という物質的なことのみに執着し、さらには、名誉や利益のためだけに懸命になって、僧侶としてなすべき仏道修行を軽んじている。そのような者に対して日蓮は、仏法を間違って心得ている愚者である、仏の教えを謗ずる者である、と言葉も惜しまず、人をも憚らずに破折をいたしました。それは、涅槃経に説かれる「間違った信仰をしていることを知りながら、見過ごす者は仏法の怨である」との金言を恐れるからです。また、法華経勧持品の「我は佛の弟子であるから、人々の中にあっても畏れることはない」という経文に従って強く折伏をいたしました。その結果、法華経勧持品の「未だ悟りを得ていないにも拘わらず、私は悟りを得たという慢心の心に支配された者」が、日蓮を憎んだり嫉んだりするようになりました。日本国がはじまって以来、日蓮ほど法華経の教えを実践したことによって、三類の強敵を招きよせた者おりません。

 このように上下万民に憎まれている日蓮を案じて此処まで訪ねて下さったことは、なみたいていの縁ではありません。過去世では日蓮の父母であったのでしょうか。遙か昔には日蓮の兄弟であったのでしょうか。その故に、此処まで訪ねて下さることを思いつかれたのでしょうか。それとも、過去世に法華経との縁が深かったことから、今生において成仏の種が熟したことにより、在家の身、多忙の時にもかかわらず、公務の合間に、日蓮への信心を貫く上からのことでありましょうか。



 新池殿については、総本山五十九世日亨上人の著された「弟子檀那列伝」には、「新池左衛門尉。遠江の国磐田郡の新池(袋井在)に住して日興上人に依って入信せられたであろう、尼と共に純真の人であった」と記されております。信徒としてのあり方を御指南された『新池御書』等を与えられている。

 冒頭の御文から、日蓮大聖人様が亡くなられた新池殿の子供の追善供養をされたこと、その時に新池殿が三石のお米を日蓮大聖人様に御供養申し上げたことがわかります。そして、その御供養を大聖人様は、「一乗妙法蓮華経の御宝前に備え奉り」と仰せです。

 一石は米俵二俵半。約百五十キログラムです。江戸時代までの日本人は、一人が一年間に一石の米を食べたそうです。ですから三石のお米の御供養は、三人が一年間食べるに困らない程の食料ということになります。まことに貴重な御供養です。

 次の、「一乗妙法蓮華経の御宝前に備え奉り」とあることが大切な意味を含んでおります。皆さまに銘記して頂きたいところです。そして、日蓮宗身延派の信仰をしている人たちに、教えてあげなければならない御文です。

 ここの「一乗」とは一仏乗のことです。一乗も仏乗も同じ意味です。一つの乗り物、ただ一つだけ仏に成ることのできる乗り物、という意味から一乗といい一仏乗といい、仏乗というのです。その一仏乗の教えが妙法蓮華経である、ということから、「一乗妙法蓮華経」と仰せになるのです。

 釈尊は八万四千種類もの経文を説かれました。その教えの中で、妙法蓮華経のみが一乗の教えである、ということであり、換言すれば、妙法蓮華経を信じて修行に励むことにより、成仏が叶う、仏様のような心を我が身に具えることができる、という意味なのです。

 余談ながら、そのように拝しますと、わたしたちのお寺の名前である佛乗寺は、唯一の正しい教えを修行する場所、という意味を込めて命名下さったことが分かります。有り難いことです。佛乗寺にお参りされることにより、仏に成ることが叶うのですからご自分だけではなく、周囲の方々を誘ってご参詣になることが大切です。また、「乗」の一字で、衆生を悟りの世界にいたらせるもの、という意味があります。その上に、「佛」がつくのですからこれ以上の素晴らしい名前はありません。日蓮正宗にも多くのお寺があり、それぞれのお寺の名前には、それぞれの意味が込められておりますが、佛乗寺はそのなかでも今申し上げたような意味が込められておりますので世界一である、最高の名前である、と。そしてそこにお参りができるのであるから最高の信者である、と申し上げることができます。
 
 さて、先ほど「一乗妙法蓮華経御宝前」を銘記して下さい、と申し上げました。それはなぜかと申しますと、御本尊様を御安置した大切なところを「御宝前」といいます。御宝の前、仏教での御宝は御本尊様ですから「御宝前」とは御本尊様を御安置したところです。そういたしますと、この御文の「一乗妙法蓮華経」が御本尊様、ということになります。では、一乗妙法蓮華経の御本尊様とはどのようなものであるか、ということが重要になってまいります。そこで、『本尊問答抄』(一二七四頁)を拝しますと、
@ 「問うて云はく、末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや。答へて云はく、法華経の題目を以て本尊とすべし」
と仰せです。ここで、日蓮大聖人様は、末法の凡夫はどのような御本尊様を信仰すればよいのでしょうか、という質問に対して、法華経の題目を御本尊様とすべきです、とお答えになります。『新池殿御消息』では、一乗妙法蓮華経が御本尊様である、と仰せになられ、『本尊問答抄』ではさらに具体的に「法華経の題目」が御本尊様であると御指南下さっております。

 さらに、同じく『本尊問答抄』(一二八三頁)で、
A 「願はくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候。其の旨をしらせまいらせむがために御本尊を書きをくりまいらせ候に、他事をすてゝ此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのらせ給ひ候へ」
と仰せです。この御文の意は、先に示された法華経の題目を御本尊様として書き顕して貴方に御下附をいたします。この御本尊様の御前で現世と来世のことを祈りなさい、と仰せになるのです。ですから、「題目を本尊とすべし」とは、南無妙法蓮華経の御曼荼羅を御本尊としなさい、という意味になります。釈尊の仏像を本尊としなさい、とは仰せにならずに、「南無妙法蓮華経の題目を認めた御曼荼羅を本尊とすべし」と断定されているのです。

 そして、「他事をすててこの御本尊の御前にて、一向に後世をも祈らせ給ひ候へ」との仰せの「他事」は他の教えの意味です。ですから、法華経の御本尊様一筋に、ということです。祈りも、一筋の祈りが大切です、というお言葉です。

 このような明らかな御指南があるにも拘わらず、釈尊の仏像を造って本尊として拝むのは日蓮大聖人様の仰せに背いていることになります。ですから、私たちと同じように「南無妙法蓮華経」と修行をしても、仏様と心が通わない修行ですから幸せになることはできないのです。むしろ、師や親の教えに背くのですからお叱りを受けることになるのです。
B 「本尊とは勝れたるを用ふべし」 (一二七五頁)
とも『本尊問答抄』で仰せです。

 日蓮大聖人様が末法に御出現遊ばされたのは、釈尊の教えでは救うことのできない私たち凡夫を導いて下さるために、「南無妙法蓮華経の御本尊様」を顕して下さったのであり、そのことを「一乗妙法蓮華経の御宝前に備え奉り」と教えて下さるのであることを銘記し下さい。そして、ほんとうの南無妙法蓮華経の教えに導くお使いをしましょう。

 今月は記念支部登山の第一回目が三月二十二日に執り行われます。記念すべき年の記念すべき登山です。さらに、お彼岸の月でもあります。御先祖がいて現在の自分があることを忘れている人は、一人だけで大きくなったように考えて、周りが見えない人になります。因果応報とはこのことです。異体同心の信心で自他共の成仏を願って精進を重ねましょう。

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